忘却

くだらないです

幸福な言葉たち

大なり小なり、いろんなサイズの自転車が、今も使われてるか、わからないやつも含め、ほとんど地面に横たわってる。前の日がすごい強風だったの。街中、洗濯物が散らばってたわ。二台くらいだけ、ちゃんと立ってる自転車があるの。Cは、自分の自転車のサドルを両手で引っ張ったんだけど、うまく両側の自転車で挟まってて、取り出せなかった。それで、自分の自転車が取り出せないことがわかると、両手を自分のお腹に当てて、その場にしゃがみこんだ。Cは、倒れてる自転車たちを入念に眺め始める。まるで、失った戦友達の、墓場にいるみたいに。
「幸福な。言葉たち」Cは左手で自分の口を覆うと、手の平に自分の吐息を優しく吹きかけながら、こう、ささやいた。すべて無声音だったわ。右手は下腹部をおさえてる。
「幸福な、言葉たち。第三章、その十二」
「まず人の話をよく聞き、今、この場面で、何が求められているか、一緒に考えてみないか。ーT先生」Cは黒のジップ付きのパァカァを着てて、眉を上げたり下げたりしながら、なにやらぶつぶつ言ってるの。目はほとんど動かさずに。それから、地面に左手をついて、立ち上がると、駐輪場の中をまっすぐ歩き始めたわ(ものすごい猫背)。Cは、今度、裏声をうまく使い、小学二年生の天才子役みたいな声で、こう語りかける。
「第二章、その六。君は、性格で損してる。ーH先生」十五歩くらい進んだところで、立ち止まり、倒れた赤い自転車を目視。スポォクが一本、外れてるの。それからCは一歩、大股に踏み込み、腰を落とす。その自転車のサドルに右手を、ハンドルに左手をかけて、力いっぱい引っ張った。隣で仲良く倒れてた自転車に、ハンドルがうまく食い込んでたんだけど、もうほんと。力いっぱい、引き離したわ。自転車の体勢が整うと、右の手の平でサドルの上を軽く払い、今度はその隣の自転車に手をかけ始めた。この自転車に手をかける時、Cはまたも、天才子役みたいな声を出したわ。
「第五章、その二十四。僕は君の人生に、あまり興味がないのかもしれないよ。ーO先生」Cは髭が乱雑に伸びてる。なにより中途半端に生えてるから、他人から見て、口元が汚い印象を与えるの。今度の自転車も、隣の自転車のスポォクの間に、ハンドルが食い込んでたんだけど。今度は食い込んでるハンドルを、左手でやさしく握り、入り込んでる場所を、右手で抑え込んでから、優しく、ひきぬいていく。ハンドルが抜けかかると、Cはハンドルを右手に持ち替え、左手でサドルを支える。自転車を起こした。ここで、突然。Cはその顔に微笑を浮かべる。目を見開いた。ハスキィボイスもとい、声がかっすかすに枯れた人、みたいな声でこう言った。
「第五章、その十一。いちいち、自分の面白さや才知をひけらかそうとしないでくれ。ーK氏」
Cはなおも一台ずつ、自転車を立て直していく。今日は、どこか、空が近いわ。空が近いんじゃなくて、雲が近いのよね。きっと。ここの駐輪場は屋根とかはないの。もしかして、本当は駐輪場じゃないのかもしれないわ。大学の敷地内だとは思うんだけど。雑草も伸びるだけ伸びてるし。もはや雑草と呼べないかもしれない。何台か本当に、今も使われてるなら、相当趣味が悪いやつか、なにか哲学をこじらせちゃった人が乗ってるようなやつばっかりだもの。お次は、とっても低い声で、話すスピィドに緩急をつけながら、鼻の穴を大きく広げて、こう言ってた。
「第四章、その五。仮に七回生まれ変わっても、あなたが車に轢かれているところを見て、私は一暼の憐れみも感じないね。ーM氏」
Cは、どうやら自転車と話してるのよ。声の高さや、緩急、抑揚を変化させたり、させなかったりしながら、語りかけてる。今度もさっきと同じ。
「第三章、その九。あなたは、具体性が、無いーE氏」ここで、Cは自転車以外のものに初めて手を触れたの。それが駐輪場と思われるところ(私も正直に言うと、自信がなくなってきたの。ここはゴミ置場かもしれない)の一角に落ちてた?いや、置いてあったんだわ。置いてあったということにするわ。誰かがちゃんと置いたのよ。カホンって楽器なんだけど。だってそうでしょ?どんなに不注意な人でも、カホンを落として気づかない人があるかしら?それとも、カホンが空から降ってきたのかもしれない。大惨事!でもこれは辛うじて原型も留めてるし、まぁ穴のところに少しヒビが入ってるんだけど。えぇと、サウンドホォルって言うのかしら。私はこの名前好きよ。サウンドホォル。昔、一寸だけえっちな感じに聞こえる言葉で、しりとりをやったんだけど、なんであの時、この言葉を思いつかなかったのかしら。ちょっとだけ、後悔してる。ちなみに確か、その時は『ひみつきち』が優勝したの。兎にも角にも、Cはこのカホンに触れたわ。ちょっと汚れててね。カホンの上の部分を右手で少し払うと、Cはそこに腰を下ろした。それでまた、小学二年生の天才子役みたいな声を出した。
「第一章、その十五。ー君はもう少し、元気を出しなさい、大事だよーA先生」
Cは黒いズボンの両ポケットに手を突っ込んで、右手でオイルライタァ、左手でボックスのタバコを取り出したわ。左手だけでうまくボックスを反転。それから右手の親指と、人差し指でオイルライタァをつまみながら、中指一本でボックスの蓋を開けた。小指と薬指の間に、タバコを挟んで、口元まで運ぶ途中で手が止まるE。そこでは、全て無声音で、口をアヒルみたいな形にしてから、こんなことを囁いた。
「第五章、その十二。自分以外の人が、よくわからないような話をしてね、人から共感されないことが、そんなに嬉しいの?ーSさん」
タバコを唇で捕まえると、左手ごとボックスのタバコを左ポケットにしまい込んだ。そのとき、なぜか右手も降ろしたんだけど。Cがサウンドホォルを覗き込むような形になってね、右手首を素早く捻る。カムがキャップの内側に当たった音と共に、ケェスが開いた。親指でフリント・ホイィルを回転させると、青い炎が上がって、あとはタバコの先っちょを、火に近づけてから、すっと、吸い込んだ。ポケットにしまい込んだ左手を出してきて、ケェスを閉じ、そのまま左手でオイルライタァを右ポケットに入れて、右手の人差し指と中指で素早くタバコを口から離すと、息を小さく吸い込んで、鼻から煙を出し切ったわ。
「幸福な、言葉たち。第三章、その十七。善処しますじゃなくて、やめろって言ってんだよーーF先生」
この時のCは、目をパチクリさせながら、無声音を出してた。例えば、タバコを吸いたい言えば吸いたいし、吸わなくてもいいといえば、吸わなくてもいい感じがするときがあると思うの。私は。こんなときは、例えばカラスが落っこちてくるとか、人が落っこちてくるみたいな現象が起こったら、思わずタバコに火をつけると思うわ。けど、実際のところ、そんなこと、まず起きないでしょ。だからタバコを吸うことは、ほぼほぼないの。でもそのほぼほぼないことが起こってしまった類い稀な事例だと私は思うのよ。鳥頭白くして馬角を生ず。だってカホンに座ってるのよ。駐輪場と思われる場所で。
「第四章、その二。幸、うすい人。ーJ氏」
Cは前傾姿勢でカホンに座ってて、右足より左足の方を、足の平ひとつ分前に出してる。左手の先を、右ポケットに入れたまま、煙を下に向け、吐ききる。Cがタバコをつまんでる右手の甲を右膝に置く際、ちょうど自分が吐き捨てた他人への自己解釈の中に、『君も、含まれている』と告げる言葉のよう、浮上する煙はCを包み込んだ。
「第五章、その七。あんたは、つまらないんじゃなくって、くだらないのーN先輩」
Cは対面する木々を眺めた。太くて硬そうな木。正確に言うと、その木々の葉っぱ達を眺めてた。Cはことあるごとに、「小人になったら、木々の陰毛を彷徨いたい」って言ってるやつだから。きっと悍ましいことを考えてるに違いないわ。無声音が続く。
「第二章、その十。君はどうしたいの?それからじゃあ、どうすべきなのか、考えるべきだよね。ーY先輩」
タバコを右手の人差し指と中指の間で挟んだまま。一枚の葉を見てるの。その葉だけみんなと違う方向に揺れててね。それから、タバコの火が消えたわ。ポケットから左手を取り出し、背中にあるフゥドを掴む。自分の頭にかぶせ、サウンドホォルの方を向き、目を閉じた。
小学二年生の天才子役と思われる声で、「第四章、その十九。遠くの海を眺めなさい。目が、よくなるからねーT氏」と、C。
目を開けて、タバコには、もう火が灯っていないことを知る。右手で軽くスナップをきかせ、サウンドホォルの中へ、放り込んだ。それから足の爪先に、力を込めて立ち上がると、Eは対面する木々の方へ、歩き始めた。ちなみにこの時Cは、長年、夢を追い続けるも、売れることのなかった、ハァドコアバンドのヴォオカルが、ラストライブ、最後の曲の前フリに繰り出す、力の限りを尽くしたような声で、こう言ったわ。
「幸福な、言葉たち。第一章、その十六。キレイな目をしてるのにね。ーーD先生」

 

 

 

ファミレスファイト

「ねぇ、私がどれだけいらいらしたか、わかった?」鼻の左側の穴を、左手の親指でほじくり、鼻毛に粘着した、鼻糞を、爪先で搔き出すK。そのついで、「わかったよ」って、唇を動かした。
「あぁもう、なんなの」こいつ(S)は、この世界に向けて言ったのよ。そうよね。なんなの?この世界に生きてる限り、切り離せない話題だわ。
「あいつは工学部だな」と、K。メニュウ表が立てかけてある場所から、塵紙を一枚取る。そこに鼻糞をこびりつけ、窓辺に目を移した。
「あの性欲が強そうな丸眼鏡のことかい?」と、I。三人は窓際の、雲がかった朝暘にウインクできる席に座っているの。IはKの正面に座り、そのIの肩にレストランの通路沿いから、Sはもたれてる。
「性欲が強いかは、俺にはわからないけどな」このレストランは、大学のキャンパスに沿って車が流れていく道路の、ちょうど真向かいにあるビルに位置してる。二階にあるの。三人が座る席からは、そこの道路を流れる車だけでなく、歩道や路側帯を流れる朝一の新鮮な大学生を視野の中に認めることができたわ。
「いかにも。朝一のペッティングを終えてきたみたいな顔してる」Iがそのときちょうど歩道を歩いていた大学生を見ながら、こう言うと、Kはココアの粉が沈殿したコァヒィカップの中へ、塵紙をぽとりと落す。続けざま「あんな小洒落たベルボーイみたいな恰好をした紳士が?」と口にした。
「あんたわかってないね。小洒落たベルマンみたいな格好をしたやつが、一番性欲強いの。君の考えの甘さ、80パーセント」Iの肩から、Sの頭部が離れる。窓辺を一瞥するなり、Sは口を開いた。
「あいつ、中央食堂前の草むらでよく女の子とたむろしてるやつじゃない」
「そうそう、よくその草むらで精神的ペッティングをしてるんだ」Kは唇を左右にしぼり、鼻の穴の通気性を確認。それから、「君の心、大丈夫?」と、呟いた。
Sは御手拭きやプリントが散らばる机の上から、ワインレッドに塗装された、てかてかの手垢付き携帯を手に取る。再度Iの肩に頭部をのせる。携帯のビデオ機能で、左斜め前の席に座り、鼻の穴に指を突っ込んでいる男性を撮影し始めた。携帯の画面に映し出される男性に向け、Sは話しかける。
「ねぇもう、そういう何学部か何かとかもうどうでもいいからさ、私の話、聞いて」
「今の言葉、効いたよ?」と、膝掛けの位置を整えるI。
「お前、何やってんだよ」当ファミリイレストランでは、外の薄明かりと、暖色の照明が混ざり合い、独特の薄暗さを作り上げていたわ。ちなみに机の上にはそこら中に紙やら筆記用具やらが散らばってた。
「うん」と、S。
「ちょいちょいちょい」と、言いながらなおも鼻糞を取り除いていくK。右手で携帯をいじくってたんだけど。ここで窓辺に携帯ごと、手を置いた。Sは動画の撮影を停止すると、Iの肩を離れる。携帯を机に置き、今度は足元(膝掛けの中)にあった湯たんぽを、両足の平で取り押さえる。右腕を下ろし、湯たんぽを掴むと、顔面の前に持ってきて、上下に振り始めたわ。たっぷんたっぷん。
「ほら、人の話、聞かないから」Sがこう言うと、湯たんぽの揺れに合わせ、身体を上下にふりながら「ちょいちょいちょいちょいちょいちょいちょい」と、I。
「聞いてるよ」Iは机の上に手の平を添え、振動が三つのソオサアとコァヒィカップに伝ったわ。
「ちょいちょいちょいちょいちょいちょいちょいちょい」
「静かにしろ」Kの目前にいた物体は、静止。ここで、右太ももを激しく叩き、け、ら、け、ら、と、笑い始めるS。なおも湯たんぽを上下に振り続けているわ。Kが鼻糞を取り除く作業をひと段落させ、Sの方に顔を向ける。一通り満足したのか、湯たんぽをIの膝掛けの上に。
「私はもう、フざけたこと以外、何も言えなくなったな」と、S。Kは右手で後頭部をさすり、左手で角の無い、消しごむの裸体を掴む。地毛でもあり、寝癖のようでもある、へんてこな後ろ髪から、ふけが散らされる。
「ふざけた顔してるからね」Kが後頭部をさすりながらこう言うと、Sは、「ははは」と声を発し、反転。膝掛けは崩れ落ち、膝はIと共同で座るソファの上に。レストランの喫煙席には自分達以外がいないことを目視すると、こう、口にした。
「ねぇ、真面目な顔してると、怖いよ。って言われるしさ、頑張ってニコニコしてると、何考えてんの、って言われるしさ、どうすればいいと思う?」
「しらねぇよ、その顔に生まれた時点の問題だ」Iの膝掛けに置いた湯たんぽを取り、Sは再度座り直す。掛け布団を取り、自分の背中の下へ、湯たんぽごと、しまい込んだわ。白い天井に、シミがついてるの。いくつか。そのシミを眺めながら、「ここにいるの何日目?」と、I。
「しらねぇよ。四日目くらいかな」と、K。こいつの『しらねぇよ』ってやつは、『君は今、私に。とても心地よい間合いで、質問をしたのですよ』くらいの意味なのよ。
「あいつは人文っぽいな」Kはこのとき、消しごむの黒ずんだ箇所を先ほど鼻糞をほじくり出していた方の親指で愛撫。視線をレストランの窓辺に移し、公道を自転車で流れる一人の若造に目を留めていた。
「いや、理学部かな」とI。
「なんで?」Kは愛撫を終えたばかりの消しごむを、机上へ放る。このとき、そこら中に散らばったルウズリイフやプリントの中を奇しくも駆け抜けるような形となり、また、いくつかのコントロウルを失った愛撫後の裸体は、音を立てず、倒れこんだ。
「人文では見たことないよ。それにあいつはピロウトークで宇宙にまつわる話、例えば今目にしている星々の光は一体、何年前のものなんだ?とか、その程度の浪漫溢れる話をしていれば他人の子宮を喜ばせることができるみたいな考えをもっていそうな顔をしてるんだ」再度、手垢付き携帯を手に取るS。先ほど撮影した鼻糞を取り除く男性の動画を眺めていた。
『ねぇもう、そういう何学部か何かとかもうどうでもいいからさ、私の話、聞いて…今の言葉、効いたよ………お前、何やってんだよ……うん…ちょいちょいちょい…』
「お前は人の顔を見ただけで、どんなピロウトークをしているかまでわかるの?」Sは飲みかけたコヲンポタアジュの入るカップをソオサアから離す。自分の手元に引き寄せた。
「いかにも」
ボタンを押す。撮影が始まる。Sのショートパンツから流れ出る、パンストが映る。
「私の元カレはピロウトークで自分のまつ毛の長さについて説明する人だった」引き寄せたカップに、こう言うと、手垢付き携帯を立て掛け、今度は鼻糞を取り除いていない男性がクリイム色のソファと共に、映りこんだ。
「じゃぁおれは、どんなピロウトークをするんだ?」
「君はピロウトークをしない。いや、できない。なぜか?ピロウトークをしようとした時、すでに彼女は眠っている。それはピロウトークではない。独り言。ピロウの上で寝静まる、彼女の横で、君は仮にこう語りかける。君のおっぱいの形は、いやはやピレネー山脈とは何だったのかー」
「ちょいちょいちょい」と、声をあらげるK。
「なんだよ?」と、こちらも声をあらげるS。
「何やってんだよ馬鹿」Iは分離したコヲンポタアジュの横で、陰険な表情の男が映っていることを認知。純白の携帯を掴み、手指をひねる、スライド。Sとコヲンポタアジュ横の男が映った。
「お前、何回も同じこと言わせんなよ」
「だって人の話、全然聞いてくれないから」コヲンポタアジュ横で、男は顔を宙に上げ、目は左上の方へに向けられている。
「聞いてるって」
「聞いてるなら答えて」ここで、窓際に座る男は対面する二人の女性の目下にあった『くま』に注目した。
「何を答えればいいの?」
「ほら、聞いてないじゃん」
「今日、雪降るらしいよ」こう言うと、ポタアジュ横の男は携帯を手に取る。Sが腕を組み、前屈みになったところで、Iの手元から男の姿が消える。
「へぇ」と、I。
「お前またそうやってゲームばっかして、私とゲーム、どっちが大事なん?」シャッタア音が鳴る。
Kは「お前、朝っぱらから元気だな」と、口にすると、暖色の照明に照らされた二人の美少女が画面いっぱいに映ったことを確認し、写真フォルダに保存。
「お前、女の子にどんなこと言われたら嬉しい?」Iの純白の携帯を握る手は、目下の『くま』を隠す。Iはこの間、じっと口を閉ざしてたの。Iの携帯に、男の本体が映る。
「知らない」
「彼女ができないわけだよ」Iはシャッタア音が鳴る度に、前後に揺れるポオジングを取り、さも銃弾に打たれているかのような臨場感を出してた。
「別に欲しいなんて言ってない」
「好き。顔をうずめたくなるくらい」
「なんだよ、気持ち悪いなぁ」シャッタア音が止まる。
「冷たい言葉を使えば、冷たい言葉が返ってくるし、あたたかい言葉を使えば、あたたかい言葉がかえってくるよ」
「はいはい」 この『はいはい』のところで、ポタアジュ横にいた男の動きは停止。一瞬にして、画面から消え去った。
「この線からこっち側に入ってこないで」
「それは言われたい」
「中途半端な優しさは、もういらないの」Iは携帯を降ろす。目下の『くま』は、露わに。シャッタア音が鳴る。Iの身体はその音に反応することなく、手指をひねる。画面は閉じられた。
「なぁ、腹減ったよおれ」
「頼みなよ」Kが座っている方のソファに、お茶目な子どもか、ヤンキイにえぐり取られた跡、みたいな窪みがあって、Kは自分の携帯をそこに差し込んだ。
「あれは、絶対農学部だよ。だって作業着着てるもん」
ここで久しく唇を割らなかったIが口にした言葉は、「朝一、首から下までネッキングされたねあれは」というものだった。
「私ね」
「お前はいい目をしてる」と、K。
「大学生なんて朝一でネッキングしてくれる時間さえあればあとは何でもいいの」Iは昨日、笑いをこらえるために口内を必死で噛んだため、出来上がった口内炎(右頬の裏にある)を、舌で舐めずっていた。
「お前さんもいつかわかるよ」
「わからなくていいよ」
「待て、そういうファッションかもしれない」
「私さ」
「女の子だよ」Kがこう口にすると、Iは口内炎の舐めずりを停止。
「女の子だからこそ、ファッションかもしれない」と、I。
「私、自己愛も自己嫌悪もー」
「え、待って。よく見たらさ」対面する二人は、窓辺へ身を乗り出し、複数のうさぎが描かれた一枚の膝掛け(うさぎ達は皆、手を繋いでいる)がぱたりと落下。
「男じゃん」ここで、Sの両手は宙に浮きあがり、暖色の光が差し込む。
「はっはっはっはっはっはっはっはっはっふはっはっはっ」
ソオサア上にのるスプウンが空虚に音を鳴らす時、両の手は、机上に振り落とされたことを知る。
「うるさいよ」裸体のまま放られた消しごむがバウンド。店内に静けさが灯り、消し屑とともに、揺れる。窓辺にいた二人が謝罪の弁を述べたところで、Sは吸い殻の落ちていない灰皿を引き寄せ、人差し指を投下。くるくる回す。
「自己愛も自己嫌悪も存在しないところにいたいの。それだけ」
それはもう遠い過去のことだから、気にしないでくれ、というような印象を与えたい気持ちがすっかり裏目に出てしまったような印象を「ほらもうあんた、何食べんの?」という科白から感じ取る二人。
「ボタン、押すからね?」と、灰皿はくるくると回る。
「ちょっと待ってよ」
「ゲームスタート」と、呼び出し音が鳴る。Iは口内炎を舐めずる。

 


 

新しい朝

Uは台所から取ってきた、マグの取手を、左手に握る。ちなみにこのマグ、三匹のペンギンが共にサアフィンしてる絵が描いてある。愉快ね。チェイサア用で炬燵の上に置いてあった水を、マグの中へ注ぐ。それから、炬燵の横で、横たわってる物体の。顔面のそば、そいつを置いた。Uは指先が長く、ほっそりしてて、綺麗な爪の形をしてるのよ。
炬燵の中、足を崩しながら「やめときな」と、B。
「ここに水、置いとく。それから気分が悪かったら、ちゃんと言いな」
 ここで、左親指の爪を、もう一方の親指の腹で撫でつけ、Bは誰かに声をかける。
「一時間前は冷蔵庫の上で踊ってたのに」
Uは後ろで髪を束ねてたんだけど、両手でヘアゴムをはずす。ヘアゴムをズボンの前方左側のポケットへやると、「生きてます」って、言った。それから、Dさんは炬燵内の約六割のスペイスを占領して、顔を天井に向けていらっしゃった。両手を身体の後ろに置いていまして、置いていたっていうか、うまく身体のバランスを取って、いたのかしら。ヨガで言うところのダンダァサナ(杖のポォズ)に近い。最初からこう言えばよかった。ダンダァサナ(杖のポォズ)から両手をやや後方にずらした格好で、目を閉じているの。それから、目を閉じたまま「もうわかったから。はいはい、始めましょう」とおっしゃりまして、炬燵内の占領地が四割に後退。Oはさっきからずっと、口を半開きにしててね、私、口を半開きにしてる人を見ると、どうしても何かを口の中に突っ込んでやりたくなるのよ。まだやったことないんだけど。そのうちやるわ。それで、テレビのリモコンを右手の親指でいじくりながら、こう、話した。
「馬鹿は、高いところに行きたがる」
Dさんが天井の方を向いたまま、目をお開けになって、「テレビを消して。生き残ったのはこの四人。みんな。杯は持った?」と、Dさんの『どきどき物真似レパアトリイ(自称)』に入っている、巷で有名な、声がすこぶる低い喫茶店のお姉様の声で、残りの三人に呼びかけなさいました(Oは電源ボタンを押す)。Uが両手で杯を持ち、低めの声で「持ちました」って言うと、ダンダァサナ(杖のポォズ)からお帰りなさったお方が、炬燵の上にあったビィル缶を勢いよく、左手で握る。右手の人差し指と親指でプルタブをつまみ、手前に引くと、残りの輩は一斉に杯を持つ。
「前途を祝す」
腕がDさんの方へ、集まっていく。BとUはコップの底に左手を添え、右手で杯を傾けながら、杯の縁を缶の下の方にあてにいった。Oは立て膝になって、両手で杯を包み込むように持ってた。そのまま、杯を持ったBの手の甲に当たる。各々が、杯を見つめながら、自分の口元まで運んだわ。
「先輩、おつまみがもうないです」杯が音を立て炬燵机に置かれると、Uの顔を見ながら『おつまみ』の有無を指摘するB。Uは杯を握りしめてて、Dさんの方を見てる。Dさんは、もうほとんど目が開いていらっしゃらないの。でも、口だけは動かした。
「おつむがよわい?」
「もう少しで夜が明けます」と、U。Oは、ベランダの方を向いたわ。
「これで無事、みんな仕事にいけるってわけでしょ?」と、Dさんがおっしゃると、Uは杯を一口呑み下してから、「日曜日ですしね」って言ってた。四人は炬燵を、コの字型に囲ってて、台所に一番近い方には誰も。座ってないの。そこに座るためには、そのすぐ側で横たわっている物体を、少しよかさないといけないわ。Dさんは、ベランダに一番近いところに座ってて、OとBは壁側。Uはベッドの側面に、寄りかかってる。
「へーぇ。お前。格好つけてんじゃないよ」このDさんの『へーぇ』は驚きや詠嘆なんかではなくって、自分の息の臭さを確認するためのものなの。それと、Dさんはお酒が入ると、唐突な批評や、質問をすることが多いのよ。これはなんでかって、そりゃあ知らないけど。兎に角、どんな会話をしてようが、そんなことは関係ないの。
「僕ですか」お酒が入ってなければ、Dさんほど話をすり替える能力に長けている人って、なかなかいないと思うわ。授業中に、本当に授業に関係ないことしかしない、小学校五年生の男の子がいたとしてね、その子がどんな突飛な、ちょっとHな発言をしちゃったりしても、この人は必ずその言葉を拾って、そこから算数なら算数、国語なら国語で、その日の単元に結びつけていけるの。でもお酒が入ると、会話を成り立たせることには、あまり興味がなくなってしまうのよ。Dさんはこの時、目を半開きにして、ほとんど白目のまま、軽く頷いた。それからBの方を向いたわ。
「現在完了進行形の話ですか?」
口も、半開きになる。Uはその顔を一瞬、目視すると、「プレゼントパァフェクトコンティニュアス」って言った。
「そうだよ、もう。別れた?」この際Oは、焼酎を舐めずり、杯を炬燵の上に置くと、両腕を組んだ。ベッドで横になっている物体とかを見てたわ。
「今は。いや、何にしても…」
「はぁ」Dさんはお酒が入ると、溜息も出やすくなるの。なぜかしら。溜息って言っても、それは時として、言い淀みであったり、相槌でもあったりすると思うんだけど。ここで、UとBの目が合う。しばらくしてからUは「まだ続いてるんですか」って聞いたわ。
「いや」と、B。なんかよくわからないけど、たまたま目が合っちゃう時ってあるのよね。お互い、なんにも言わずに、ちょっと微笑んじゃったりするの。奇妙よね。何のアイコンタクトなのかしら?Uは、その奇妙さを回避するために口を開いたんだわ。
「三年と、四ヶ月くらいだったかな」焼酎の水割り、六対四くらいで割ったやつ(六が水ね)を、Bは呑んでるんだけど。このとき、一口呑み下すまでに、『間』を作っていたら、両腕を組んだOがBに代わり、口を開いてたのよ。
「聞いてないです」と、U。
Oは、両腕を離すと、おつまみが入ってた皿の上のかすを摘んで食べ始めた。Uは赤い、花柄のジャアジを上に着てる。荒地盗人萩、みたいなやつが描かれているの。なんでまた、こんなジャアジを作ったのかしら。きっと作った人は、よほどアイディィアに困っていたか、何か、忘れられない想い出があったのかも、しれないわ。小学生のとあるとき、荒地で鬼ごっこをしててね、ちょっと前から気になってた女の子が、その日は赤めのジャアジを着てたの。で、その子が鬼になったときに、追いかけて来たんだけど、途中でその子は転んじゃった。心配そうな顔して、そいつが近づいてしゃがんだら、女の子がそいつの足をタッチして、『踏んでるよ』って。『なんだよ』って思って見たら、この盗人萩で、女の子は、ズボンをはらう。『あなたが鬼よ』と言い残し、逃げちゃった。みたいなやつ。
「知らなかったです」Uがこう、口にしたとき、Bは炬燵布団の裂けたところ(自分の炬燵布団ではない)を、さらに引き裂こうとしてた。もうほんと、綿があふれ出そう。
「てっきり知ってるかと思ってたな」と、O。Oは足を炬燵から完全に出してる。それで、小刻みに震えてるの。
「ぇえっ」
Dさんはお酒が入ると、唐突な質問や、溜息だけでなく、感嘆の声も増えるの。全く、よくわからないんだけど、自分の好きなタイミングで感嘆の声をあげたがるのよ。正直、本当に。このことに関してのみ、多くの人がDさんの悪癖として懸念を示している。それ以外は本当に敬愛されている人なんだけど。ここではBがDさんに顔を近づけ、Dさんしか聞こえないくらいの声量で、「ちょっと、うるさいですよ」と、告げた。
「なるほど。いろいろと、繋がった気がします」
「ちょっとさ、お前。貧乏揺すりを、やめてほしい」Uが何かを言ったことは、聞こえてたと思うんだけど。そんなことより、Bは他人に注意、指示を出すことに必死なの。いつ、何時でもよ。確かに貧乏揺すりは時として本当に煩わしいのだけど。彼のような人がいないと、うまく成り立たない状況とか、多々あると思うわ。実際に彼のような人に、私は何度か本当に感謝した。こういう人って、無人島で暮らすことになっても、その島にいる鳥とかに注意したり、指示を出しちゃったりするのよね。それがまるで神々から与えられた自分の生涯における使命なんだ、くらいの気の持ちようでね。そうしてる自分のことに、恋しちゃってるんだから。それで、Oは貧乏揺すりをやめたわ。
「なんで別れたんですか」と、U。
「なんでだろうな」Bはここで、天井を見上げたり、引き裂いた炬燵布団の跡を見たりしながら間を作ってた。
「もっと強くなって、俺のことを見返してほしいんだ」
男がこう語ると、Uはしばらく本当に臭そうな顔を浮かべてた。二週間放置してた生ゴミと大量の蛆虫の臭いを嗅いだ時くらい。
それで、「まぁ難しいことなんだよ」って、Oが会話に入ってきたんだけど、この言葉は、誰にとっても、特に意味をなさなかった。こういう、いわゆる取り上げている話題の難しさを、逐一確認しながら会話を進めようとするのって、洒落てる。とでも思っているのかしら。
Uの、「そうですか」は、多分詠嘆の意味合いだった。Bは右手の人差し指を自分のこめかみに向け、「君と僕達の頭は、繋がってないだろ」って言った。この、『僕達』って、何なのかしらね。『僕達』の頭は繋がっているって、ことかな?私には理解できないわ。理解できなくていいんだけど。これが男の子たちの一体感みたいなやつなのかしら。 南無。
「何をおっしゃっているのか、よくわかりません。確実に。あなたじゃなくても幸せになれると思います」
Bの左手が杯を握り、背が壁にもたれ、右の人差し指で再度こめかみを抑えた時、左隣にいるOは前方のベッドの上、寝息をたてる女の子を一瞥。「君の同期はみんな、横たわっているね」と、口にした。一人はこの部屋に住んでる男の子で、さっきUが水を置いた方。もう一人は、女の子で、日を跨ぐ前に寝たわ。Uはこの時、ベッドの枕元にあったティシュウ箱から、左手でティシュウを一枚取り、鼻を擤むついでみたいな感じで、こう言った。
「呼吸してるんで大丈夫です」
顎をあげて、呑んでた杯を空っぽにしてから、Bは吐息を漏らす。「呼吸してても、大丈夫じゃない人もいるんだ」って、口にした。小学生同士の喧嘩に割り込んでくるヤンキィみたいな声で。ちなみにDさんはこの時、完全に目を閉じていらっしゃった。
「例えば、誰ですか?」
Bは新しい杯を作ろうと、床に置かれた一升瓶を右手で掴んだ。でもOが両手を差し出してきたから、それを受け渡すことにしたのね。その受け渡すついで、「例えば、君だよ」って、喋った。Uは表情筋を緩めることなく、鼻を擤んだティシュウを丸める。BとDさんの間にある、黄色いゴミ箱を目掛け、左手でスナップを効かし、シュウト。丸まったティシュウは、絶妙に、気だるく、弧を描いて(半回転し)、ゴミ箱の中へ、すとん。堕ちていった(ナイスシュウト)。それからOは、床に袋ごと落ちてるほとんどカスみたいな氷を左手で二つ取る。杯へ。右手で焼酎の蓋をひねる。外す。そいつを炬燵の上に置くと、臭そうな息。こう、口にした。
「ねぇ、愛を歌おうよ」
ラベルを上に、瓶底に右手を添え、左手で先端部を持ちながら、焼酎を、本当に(私には、適当としか思えないのだけど)、ものすごい速さで入れたわ。ドゥバドゥクッ。本当に一瞬だった。でもちょうど半分くらいになってたから、驚きね。
「俺たちも、居なくなる」
Bがこう言ってから、Oは蓋を閉め、自分の左側に置く。右手の人差し指で、氷をくねらせると、杯をBに渡した。
「水は?」と、男は尋ねる。
「氷を多めに入れた」と、男は答える。
「後輩は大切にしますよ」と、U。Uが目を一寸、閉じ掛けると、Dさんの目が、瞬く。玄関の方を見てた。「なんの話をしてる?」と、おっしゃりました。UはDさんのお顔を拝見することなく、瞼を閉じる。
「好きな、椅子の形について、話していました」
「そうか。そりゃあいい。ねぇ、どんな椅子が好きなの」左手で、虚ろな目をこする、U。
「バっフ」口からこう音声を発しながらUは左手で口を覆った。
「バフ?」
Dさん以外の目が開いてる男性は、揃ってUの方を見たわ。
「すみません。むせてしまって」Dさんは首を横に振り、こう語った。
「いやいや。いいんだよ。そりゃみんな、椅子の形の話となると、興奮してしまうからね」
「お風呂場の中にある椅子です」Dさんは間、髪を容れず、「はぁ」って声をあげた。これは、感嘆の声ね。
「ちょっと僕、今からやるから、どんな感じで座るの」と、O。そのまま、炬燵の横で四つん這いになった。Dさんは「いや、どんな形なのかな、それは」と、おっしゃりまして、こちらもまた、四つん這いになった。
「やめてあげてください」と、B。
Uは炬燵に手を掛け、両足の踵に力を込める。立ち上がるや否や、低めのセンタリングに合わせる要領で、Uはトウキックを繰り出した。
「ありがとう」と、わき腹を抑えるO。
Uのトウはイタチのよう、ぬっと、炬燵の中へ潜り込む。Bがお尻を踵につけ、横目で、Dさんの方を、目視。一寸顔を近づけて、「先輩、起きてください」って言ったの。Dさんは、目をつぶってる。
「今日、朝から何か、あるんですよね」と、U。
Oはここで四つん這いを辞め、こたつの横に座りなおす。体育座りみたいな格好になった。
「あるよ、それは。朝が来たらの話だけど」って、おっしゃった。目は閉じたまま。
すかさず、Bが「朝が来ます」って言ったんだけど。あんまり聞こえてなかったのかもしれないわ。「へぇ」って。それだけ、おっしゃった。Uは、Dさんが四つん這いになったことで、腰があらわになってしまった部分を目視しながら、こう言った。
「何があるんですか」
「ふふふふふ」この時Dさんは『どきどき物真似レパアトリイ』に入っている、喫茶店のすこぶる声の低いお姉様の声で言ってた。Oは、目を細めていて、Dさんの先にあるベランダの方を見やりながら、「明るくなってきたな」みたいなことを話したわ。ここのベランダの方からだと日の出は見れないんだけど。遠くの分厚い雲が、白みがかってきてた。OがUの座ってるところの、ちょうど真上あたりにある、深い緑の、掛け時計を見ながら、「おれもそろそろ出ないといけない」って口にした。それからしばし沈黙。みんな、一度はDさんのあらわになってるパンツとかを見た。
「うみは、何になるの?」と、O。再び、左手で目をこするU。
「偉くはなりたくないですね」
「うん」
「偉くはないものになりたいですね」
Bは自分のズボンのポケットから、タバコのソフトケエスを取り出すと、炬燵の上に置き、こう語りかけた。
「一つ。真剣に、アドバイスしておくけど。君はもう少し、自分がそんなに器用じゃないことを自覚した方がいい」
「先輩は授業に出た方がいいと思います」
「ご名答」
「なんで出ないんですか」
右の人差し指と、親指で、一本。タバコを取り出すと、炬燵の上で、フィルタァを下にし、炬燵机を叩き始めた。
「くだらない授業に九十分出るよりか、質の良い映画を九十分見たほうが心地よい時間が過ごせるだろ。そういうことだよ」
「映画を見てたんですか?」
「でもほら、ちゃんと卒業するから。行く時は行ってたわけだよ」
「なるほど」Oは右手をポケットに突っ込む。立ち上がると、Bの頭上を跨ぎながら「日が出てきた」って言ったわ。よっぽど、日を拝みたかったのね(光合成がしたい年頃なの)。それから、四つん這いになったまま、動かなくなったDさんの頭部を避け、床に、足を下ろしていく(ベランダの方へ)。ドアの鍵を、右の中指であげる。Bは、炬燵に叩きつけてたタバコを持ち、立ち上がった。ベランダには二つ、サンダルがあるの。ひとつは、島ぞうり。もうひとつは、灰色のスリッパみたいなやつ。元は灰色じゃなかったかもしれないわ。とっても、汚れてるから。Uは二人が揃ってベランダに出たところを確認すると、炬燵から足をのっそり出し、膝立ちに。両手でDさんの上着を引っ張った。これで、露わになってたハンケツとか、パンツとか、が、見えなくなった。Bは、ベランダに入るドアの、すぐ側に立つ。左手に持ってたタバコを、口でくわえ、ポケットからマッチ箱を取り出す。左の親指で箱を一寸押し、今度はマッチ棒をもう一方の親指と人差し指で、取り出した。右の手首を外側にくねらし、マッチ棒に、火が灯る。そいつが空中をすぅっと、浮かび上がって、タバコの、先端に触れる。煙を、口の中に溜め込んでいく。もう一度手首を、外側に素早く、くねらす。すると、マッチ棒の火が消えた。
「一本、もらっていいですか」
Oはベランダの奥、非常口って書いてあるとこの横に立ってる。今にも非常口を突き破りそうな顔をしてたわ。遠くの空を眺めながら、右手がYシャツの胸ポケットに、侵入。そこからタバコを一本取り出すと、口元に運び、右手のライタァで火をつける。一息で吸った。この間、左手はずっとポケットに突っ込んでた。
Bは左手でソフトケエスを掴み、そいつで自分の太ももあたりを、二度叩く。煙を吐きながら、身体を部屋の方へ一寸ひねる。左手を伸ばしながら、ソフトケエスを、Uに差し出す。このとき、部屋にはそれぞれ、ベッドと床で横たわる成人男女と、それから四つん這いの方がいらっしゃったわ。Uはタバコを左の小指と人差し指以外の指で一本取った。この際、影絵の『狐さん』みたいな手の形になってた。唇が、フィルタァに触れるとき、少しだけ、Oの右耳の耳たぶあたりを眺めた。Uはベランダにはギリギリ入ってなくて、裸足のまま、サッシに足の指先をのせてる。Bは煙を空に向かって吐き出し、左ポケットにソフトケエスをしまうついで、マッチ箱を取り出して、しゃがんだ。口でタバコをくわえると、UがBの方を向いて、今度は手首をひねらずに、マッチ棒を素早く赤リンにこ擦り付け、火が灯る。Uは左の親指と中指でタバコを掴みながら、火の中へ、入っていく。火元を見ながら、煙を、口の中に含んだ。Oは分厚い雲を眺める。Bがマッチ棒の火を消すと、Uの喉奥を煙が通って、Bはしばらく、Uの裸足の爪を眺めながら。しゃがみこんだままに、煙を吸ってた。それから。立ち上がって、マッチ棒が、灰皿の元へ、ぽとりと落ちる。Uは煙を吐き出しながら、二人の男の間にある分厚い雲を眺めた。Dさんは、四つん這いのまま。
「新しい朝だ」
「付き合わせて悪かった。寝坊せずにすんだよ」と、O。煙を一度吐き出してから、「気をつけな」って、Bが答えた。Uは自分が灯した火から出る、煙の行き先を、目で追ってたの。火の灯りが消えるまでね。