忘却

くだらないです

不健康な他人

ぱきぱき音を立てて、たまに空気中に、灰が吹き飛んでく。まだ燃え尽きぬ薪の欠片も、ぽつりと落ちて、仲直り。室内は木材の湿った香りに、はるばるエチオピアから来たコオヒイ豆の香りやら、クミン、カルダモン、フェネグリィク辺りの、スパイスが煮詰まった香りやらが、一切合切、混ざり込んでる。Yは、窓際にある席の中では、入り口から最も近い席に腰を下ろし、なおもEは、マフラアを両手とお腹の間に挟んで、おさえこんでる。机に対し、四つの椅子があり、Yは荷物を自分から見て左側に置き、コオトも左側の椅子にかけた。EはYが荷物を置いた方の向かいの椅子に座ったから、ちょうどお互いが、向かい合わないような配置になった。
「まず、マフラーを置こうか」
「暖かい?」
「ここは、暖かいよ」
Eがマフラアを机の上に置くと、ちょうど水とメニュウ表が運ばれてきたの。Yは水を二つ受け取って、机に置いてから、左手でマフラアを自分の椅子の荷物の上に載せ換えた。それからメニュウ表も机の上に置かれて、細身のおばさまは、すぐいなくなったわ。
「手を置いて。お願い、膝の上に。メニューが見えないから。今は、何か、話ができそう?」
「言葉が、出てこない」と、E。ここで、Yは運ばれてきたコップに唇をつけると、メニュウ表を自分に見えるよう、回す。
「安心して。よくわからないけど。とりあえず、私にはあなたの言葉が聞こえる。別に、無理しなくていいから。うまく話そうとしないで。ゆっくり」
Yは、運ばれてきたコップの側面を左手の指先でいじくりはじめて、「何か食べる?」って聞いたわ。首を横に振るE、店員に手を振るY。恰幅のいいおじさまが、遠くから近づいてきた。
「すみません。カレーを一つ。それから、紅茶をホットで。あ、ミルクでお願いします」
「ランチのカレーと、ホットの紅茶、御一つずつで、よろしいですか?」Yの左手が、コップから離れる。
「紅茶はミルクで」
ここで、恰幅のいいおじさまは、かるくお辞儀して、「かしこまりました」って、言ったわ。一方Yは、対面する相手に、わりと必死な印象を与えてしまう程度の、前歯をちらりと見せる、独特な微笑を浮かべる。小さく頷いた。恰幅のいいおじさまが去ると、Yは右手中指と人差し指を使い、前髪の位置を整えた。
「昨日の夜は?」
「さんぽ」Eは両手でお腹をおさえ、Yは左人差し指の爪で、コップをつつく。
「へぇ、どこに行ったの?」自分の手元にある、コップの水面を見つめるE。
「私の名前は?」
「しっぷ」
「残念。でも惜しかった。あと二回チャンスをあげよう」YはEに向けて、右手の人差し指と中指を立てた。
「どうろ…しっぷ」
「正解。道路脇に落ちている湿布よ。よくできました。水を飲んでごらん、ちょっと楽になるかも」Yはこう言うと、Eの右手を掴み、Eの手元にあったコップを無理やり、手で握らせた。Eはただ、コップに入ってる水の揺れを感じていたわ。それから、YはEの右手をコップごと、左手で掴み、口元まで運ぶ。Eは上下の唇で、コップの端をつまむと、ガラス表面の冷たさを確認。そのまま、唇から離した。
「しっぷさん」
「何?」
「今日のおれ、すごい臭いよ」
「いつもよ」コップを机の上におろすY。コップとEの手から、Yの左手が離れる。そのまま手を、机の上に置いたわ。楽譜をめくった後、再度ピアノの鍵盤にのせるみたいに。
「不健康な他人、覚えてる?」
「おぼえてます」
「よく集まったよね。多いときはちゃんと六人いたかな。毎週毎週。誰か誕生日が近い人がいたら、必ず顔面に何かを投げつけてた。私はよく投げつけ役をやったな。投げつけられたこともあったけど。あれ、何が厄介って、モノによっては髪につくでしょ。私、なんだったっけ?思い出せないくらいだからー」
「歯みがきこ」
「あぁそうそう。よく覚えてるじゃん。歯みがき粉だった。もうすっごいスースーした。何が愉しくって、誕生日にスースーしないといけないの。お陰で髪がいつにも増していい匂いだったけど。はぁ。懐かしい。そもそもなんで集まり出したんだっけ?よく覚えてないな。今考えたら、よくわからないことだらけ」Eは右手でずっと、コップを握り締めてる。
「りゅう先輩」
「りゅうさんいた。いたよ。あと冷え性さん」
冷え性さん」Yは眉を上に上げながら「うん」って言ったわ。この眉を上に上げる動作によって、Yは自分の同意加減を相手に強調したかったんだろうけど、それにしてもこういうことをする度に不思議なほど不自然な印象を相手に与えてしまう子なの。
「会いたいですね」Eは殆ど、瞬きをしない。それでいて、空気中の埃かなんかをずっと見てるようなの。二人は窓際の席に座ってて、ここは二階なんだけど、ちょうど屋根付きの小さなバルコニイがある。そこから太陽の光が差してて(お空はそんなに晴れてないんだけど)、その光の差してるところに、空気中の小さな塵埃が、映し出されてた。
「そうなんだ。今はどこにいるのかな。会えばいいのに」Yはさっきから背中をさすってる。ちなみに、りゅうさんと冷え性さんは『不健康な他人』を、作った二人で、主要な人物だったの。りゅうさんはベイスパァト。冷え性さんは『不健康な他人』のほぼ全ての曲を作った人で、ギタァだった。どっちとももう卒業して大学にはいない。それから、Yと同学年のやつが一人。楽器が弾けないメガネ太っちょで、一応、ヴォオカルみたいなことをしてた。今はバックパックで、どっかに飛んでっちゃった。それから、Eと同学年のやつが一人。女の子で、ドラムを叩いてたわ。今は別のバンドを組んでるの。大学中の不幸なやつらをかき集めて、傷の舐め合いをしてたのよ。塵埃が集まって、身を寄せるところがあるでしょ。そんなところだったの。最初はバンドを組んでちゃんと音楽をするはずだったんだけどね。YとEはこの『不健康な他人』で知り合った先輩と後輩なの(Yはキィボォド、Eはギタァ)。
「あの人は、ファンタジスタだった」
「そう?」
「うん」
「それはよかった。よくわからないけど」店の中は、ログハウスみたいな作り。真ん中に、ハンモックみたいなのがあって、みたいなのっていうか、完全にハンモックなんだけど。そこに、雑誌類が積まれてるのよ。
「僕は女の子に生まれて」
「うん」ハンモックに雑誌を置くなんて、ちょっと勿体無い気もするんだけど、そこしか置き場所がないのかもしれないわ。雑誌達も、心なしか、寝心地が良さそう。それから、ところどころ湿気かなんかで、壁が剥がれかけていたわ。
「おじさんになりたかった」
「ふぅーん」Yはコップについた結露を左手の人差し指で落とし始める。
「それ、前にも言ってたね。ちょっとだけHな女の子でしょ。今のところおじさんにはなれそうだよ」Bill Evansの、『Darn That Dream』が流れる。
「女の子に生まれて、おじさんになりたかったんですよ」
「二つともは、難しいね」Yはよく引き攣った笑顔を会話の中でする癖があってね。ほっぺたが痙攣してるみたいな。この時も、それをした。これはおそらく、相手に自分の自然体な様子を見せようとしてのことだと思うんだけど、あきらかに酷いの。本人はどうやら気づいてなくってね。誰かがちゃんと教えてくれないと、一生このままだわ。
「二つともとか、そういうことじゃないんですよ」 Yは指二本分の結露を、ゆっくりと、落とす。
「私がこのまま成長して、おじさんになったら、どう?羨ましい?」
「いや」Eはこの店に入ってから初めて、Yの美貌を、少しだけ拝見した。それまではほとんど、陽光に照らされた空気中の埃を目で追ってる感じだったんだど。
「あんたは気持ち悪い」
Yは身体をよじり、左人差し指の腹をコップを動かさない程度に、軽く、押し付ける。それからそっと、底の方まで、降ろしていく。
「失礼ね。それじゃあー」
「日記はまだ書いてるんですか?あの変態日記」
「変態日記じゃありません。家計簿ね。私にとっては、あれはそれなりに、ちゃんとした、家計簿だったの。もう書いてないけど。いつごろだっけな。ちょうど、不健康な他人で集まらなくなってからすぐだったかも。うん」
「惜しいですね。あれはー」
「なに」
「そうそうお目にかかれない」Yは少しだけ腰を浮かせて、左手で椅子を後ろにさげたわ。この時、ちょっとバルコニィの方を見てた。それからまた、左人差し指で、結露を落とす作業が再開。
「誰の字が汚いって?お前の字も他人のこと言えないよ」
「そういうことじゃない」Eはコップを、窓から遠いほうへ、左手で動かした。
「あなたは、他人の親切心を煽る癖があります」
「ご指摘ありがとう。不覚にも。新しい自己紹介か、何かかと思ったけど」
「どういたしまして」窓際の列、二人が座ってるところの、一つ隣に、老夫婦と、おそらく、そのお孫さんかしら?小さくて、かわいい坊や。一歳から二歳の間くらいだと思う。あとは、そのお母さんが座ってたわ。
冷え性さんみたいな人は、ちょっといないですよ」Eは、Yの顎あたりに目を留める。
「あの人は、安易じゃなかった」
「ほぉ。安易かどうかは、知らないけど」
「ぼくはあの人の影を、ずっと追ってる気がするんですよ」Yのコップについた結露を落とす作業は、一段落したみたい。机の上にあった左手を、左膝へ置いた。
「ふむ」
「あれからずっと。ただ、思い出に浸って、足跡を辿っていく、作業になってる」
「それが、いやなの?」
「いや。ただそう思ってるだけです」
「ふぅん」YはEが着てる深い緑のパアカアに書いてある、英単語に見とれていたの(ちなみに黒字で『TERRITORIES』って、書いてある)。
「今はそう思う、ってだけかもしれませんね」
「あなたが今、そう思う。ということはわかった」
「もう会えない気がするんですよ」Yは両足を椅子の下に入れて、左足の踵の上に、右足を、重ねるように組んだ。
「なんで?」
「だって、別れたじゃないですか」
「それは関係ない。地球上にいるんだから。会える」
「男と女は違いますよ、あなたはー」
「連絡先、知ってるでしょ。連絡すればいいと思います」
「湿布さんは、会ってないんですか?」
「うん。一度も。連絡はたまーに。あるかな」
「はぁ。さすがだよ。あんたわ」Yは身体を腰掛の方に起こすと、キッチンの様子を少し伺ったわ。
「なによ」
「あなたにはかないません」
「へぇ。ごめん、うれしくない。まったく」
「はぁ」
「そんなにため息つくなよ。臭いから」Yの掌は、Eの方を向き、二度、左右に揺れる。Eはその、掌の揺れを見届けることなく、窓の外へ視線を向けた。
冷え性さんは、私のことを恐れてるのよ」
「へぇ、どうだか」Eは椅子の背もたれに、もたれかかる。
「あなたが恐れてる。の、間違いでは?」Yは左手でコップを掴むと、唇をつけ、一口。飲み込んだわ。
「そんなこと言ったら、みんな。みんなそうでしょ?みんな恐れてるんじゃないの。君だって、例外じゃない。私がそう思いたいだけなのかもしれないけど」
「ご愁傷さま」
「なに?」
「そうですね。あなた様のことを、みんな恐れてますよ」紅茶がお盆に乗って運ばれてきたわ。さっきの恰幅のいいおじさま。この人、笑いすぎて、頬っぺたが笑ったまま固定されちゃった。みたいな顔をしてるの。多分、老眼鏡(と、思われるもの)を首から下げてて、Yの目の前に、紅茶(角砂糖が入った白く、小さな器と、ミルクも)を置いたわ。
「残念ね。全然面白くないよ」
「じゃああれか。あのラーメンー」Yはマグの取っ手を左手の親指と人差し指、それから中指で挟み、右手の人差し指と親指でソオサアを掴んで、Eの方に運んだわ。この際、マグの取っ手をEに向けながら、「なに?」って聞いた。
「あの台風の日に、激辛ラーメンを作ろうってー」
「関係ないでしょ。それ以上言ったら怒ります」
「僕は、あの時に相談に乗りました」砂糖が入った小さな器と、ミルクが入った小さなカップ、みたいなやつを、それぞれ順番に、左手でEの方に運びながら、Yは言いました。
「お前はいなかったんだっけ?」EはYの前で三度、うなずいて見せたわ。
「本当に関係ない」今度は恰幅のいいおじさまじゃなくて、細身のおばさまが来た。
「幸せになってほしいんですよ。本当に」Yはおばさまの方をちらりと見て、「へぇ」って声を出したわ。わりと大きな声で。おばさまは、紙ナプキンをYの手元に置き、その上に、音を立てずに、スプウンを置きにいく。ついでに紙エプロンも、Yの前に置いて、去っていったわ。
「お前だけじゃない。あの、『不健康な他人』にいた、全ての人。全員に。幸せになってほしい」と、E。Yはスプウンを右手で持つと、裏返し、また、元の位置に置く。
「何で幸せになってほしいの?ついでに言うと私の名前は、お前じゃない」
「なぜ?」紙エプロンを広げ、自分の首元にかけるY。首の後ろでゆるく結び、指先で軽く払うと、エプロンの位置を整えた。
「うん」
「あぁ。前にもしましたね。この話」今度はカリィが来たわ。細身のおば様。この人はおじさまに比べて無表情ね。
「へぇ。そうだっけ。覚えてない」Yは両手を使って、カリィを丁寧に受け取ると、ゆっくり、机の上に降ろしていくの。降ろしながら、カリィの香りを嗅いでた。
「そりゃ、不幸になりたい人なんて、めったにいないから。僕も幸せになりたいですよ。ちょっとは。でも僕は、僕なんかよりはるかに、『不健康な他人』の人達の幸せを、願ってます」
「うん」
白ご飯の上に、これはひき肉のキイマカリィかしら。お米がてかてかしてまして。その上に、沈黙が続いても心地よさを覚える男女のように、ルウがだらっと、もたれかかっているの。半分くらいカリィの領域があるんだけど、ちょっとばかし、白ご飯が顔を出してるところがあってね。慌てて呼吸してるみたいな感じなの。はぁ、かわいいわ。その上にインゲンが三つとパプリカ、それから、白いスナック菓子みたいなものがうまく重なって、そびえ立ってる。なにこれ?そして最後に糸唐辛子?が接合部に、うまくモザイクをかけてる。Eはしゃべり出す。
「音楽は、弾いてる人と、聴いてる人がいますよ。僕たちは、音楽をやってました」
「最後らへんはやってないけどね」
「不健康な他人にいなかったのは、何だと思いますか?」
「質問返しがくるとは。食べていい?」と、Y。言いながら、お皿を90度くらい、反時計回りに動かしたわ。Yにはカリィを食べ始める際に、Yから見て右側にライス、左側にルウがくるよう、皿を正面に配置する、こだわりがあったの。
「聴いてる人ですよ」
「いた。いただきます。いました。紅茶、飲みなよ」Yはスプウンを右手の人差し指と中指の第一関節あたりで挟み、それから、親指でしっかりと、固定。
「いや。いなかった。僕は思います。たった一人でも、ちゃんと、聴いてくれる人が居たら」
Yは白ご飯が、ルウの中からちょこっと、顔を出してるところを狙ったわ。スプウンがご飯の下に、すうっと入り込んでいくとね、ルウも一緒に入り込んでいってね。あぁ、もう。ひき肉も。一緒に。ずるずるって。それからスプウンのなかに、ご飯が乗り上げていって、、嗚呼。空中へ。このときEはYの顔を見た。かぷり。口の中に熱と、これは、柑橘系の酸味だわ。そこから、苦味を経由して、スパイスが、ご飯と、口の中で、踊る。そして落ち着いたと思ったら、喉の奥を流れていくのよ。
「へぇ」
「ぼくは聴きたいんですよ。不健康な他人を」
さっきまで、白ご飯が顔を出していたところには、ルウが滑り込んできて、沈黙。今度はそのすぐ右側にスプウンが入ってくるわ。嗚呼。
「きっとね」
再び、空中へ。今度は口の中で、さっきの残り香があったのかしら。スパイスが先に広がったわ。そこから、酸味が効いてきて、苦味とあいまって、優しく、口の中を駆け抜ける。Eは右手で自分の左肘をいじり始めた。
「なんなら、あのメンバーから外れてもいい。ただ聴いている人になりたい。あなただって、あそこで脇役をやってた頃が一番輝いてましたよ。自分でもー」
「いいえ。私は一人でピアノを練習してる時が一番幸せ。嘘じゃない。誰も聴いてくれなくたっていい。森の中を彷徨ったら、一台のピアノがあってね。そこで一人、ただ黙々と弾くのが夢」Yはこう言いながら、スプーンをご飯の下に潜り込ませていった。
「そんなのは、音楽じゃない」
後ろの席の坊やが何やら泣き始めた。それをお母さんは必死にちょっと揺らしたりして止めようとしてる。その間、カリィを乗せたスプウンが、空中で一瞬とまって。Yは自分の吐息を少し吹きかけてから、口の中に入れたわ。坊やの叫び声が止むと、Yは話し出した。
「音楽でしょ。森の中で腹を叩いても、あんたの頭を叩いても一緒。ちょっと、性格は悪いかもしれないけど」
「じゃあ、あんたが死んだらあんたの頭蓋骨は楽器にして、僕が森で演奏する時に使うから安心してください」今回は、カリィが喉を流れるまで、時間がかかったわ。口元を拭うY。
「いいよ。その代わり、お前が私より長く生きれたらの話だけど。私の方が長く生きてたら、あなたの遺骨はアンプの横ね」
Yは、スプウンの先で白飯を叩くようにして、三角州の中に一度落としてから、ひとすくい。
「相互だと思うんですよ」
「ふぅん」この時のYの声は完全に鼻音だった。
「相互の関係の中で生まれますよ」
「せめて楽譜どおりに弾けるようになってから言って」
また坊やが泣き始めた。今度はなかなか泣き止まない。そこで、そのお母さんは、唇を強く結んでから空気を一気に放って、「Va」に近い音を出すやつをやったわ。これを二回連続、三セット繰り返したところで、Eは言った。
「音楽だけじゃないです」
Eは右手で左肘をいじるのをやめ、今度は左手で右手首を触りだした。それから先ほどの坊やが泣き止んだの。なんなのかしらあの技。「ヴァッ」「ヴァッ」って。とりあえずそれで、Eは話し出したわ。
「ぼくは、いろいろ、言いたいことがあった。でも、何も言えてない」
Yはこの間ずっと、カリィを食べてた。基本的に自分が今まさに食べているカリィを見てるんだけど、たまにEのパァカァに赤字で大きく書いてある『TERRITORIES』ってとこや、Eがあまり手をつけていない紅茶の水面をチラチラ見てたわ。
「小学校二年生くらいの女の子が、『犬のおまわりさん』みたいなやつを弾いてたんですよ。あの、アーケードの中にある、おんぼろのピアノで。みたいなやつっていうのは、それはもうめちゃくちゃだったから、よくわからない、ってことなんですが、とにかく、そのときに、近くに一人のおじさんがベンチに座ってて、これは、この人はどんな想いで聴いてるんだろう。と思って、ちょっとよく見てみたら」
Eは自分の頭を上下に三、四回、振って見せる。
「ヘドバンしてたんですよ。ぼくはもうそのときに、ああこれは、と。これだ。と思ったんです。本当に音楽が好きな人は、しちゃうんですよ。しちゃうしちゃうヘドバン」
Yはスプウンをくわえたまま、Eの顔を目視。Eと目が合うと、スプウンを口からすっと出し、咀嚼。Eは自分の両手指の関節を眺めながら言った。
「あなたは、完結してる。一人で」
インゲンをルウの中に白飯と一緒に落とし込んでから、Yはスプウンを沈み込ませ、親指で一寸ひねり、口元まで運ぶ。それから、今回は早めに飲み込んで言ったの。
「いいえ。あなたは一年後も、今自分が出せる音なら、すべて出せると思ってる」
「一年後に出せなくなるなら、それはそいつの問題です」左手で、右手首をほぐし始めるE。
「残念ながら」Yは、一旦スプーンを皿の淵に置き、その手でコップを掴む。水を飲み下してから、「なんで何も言えなくなったと思う?」って言ったわ。Yは自称ポォカァフェイスなんだけど、そもそもポォカァフェイスって、素の顔と見せかけて、実は違いますよフェイスのことでしょ?こいつの場合は、素の顔をそのまんま見せてるのに、ポォカァと見せかけるフェイスなの。こんな可哀想なやつって、そうそういないわね。
「言えなくなったんじゃない」
続いては、パプリカの登場です。ルウをしっかり白飯の中に落とし込み、赤いパプリカと一緒に、Eに見せつけるよう、すくいあげる。口元まで持ってきた。
「いろいろ言いたいことがあったんでしょ」
Yは一度、スプウンを口の中に入れたんだけど、まだちょっとだけ、スプウンに残ってたの。カリィが。だから、もう一度、スプウンを唇の奥に、通したわ。
「実際に言おうとしてましたね」
老若男女問わず、何かを噛んでる時って、唇が小刻みに動くじゃない?この子は、この唇の動きだけを見てれば、とっても美人なのよね。
「誰に?」 
「もうそういうのはどうでもよかった」
Eは左手で右手首をもみほぐしていたのだけど、ついに作業は手の平の方に移って、今度は手の平のつぼを刺激し始めたわ。
「どんなことが言いたかったの?」
Eが宙に、次なる言葉を探している間も、Yはカリィなる大地を開拓していた。
「言葉にすると、全部嘘になっちゃう気がするんですよ」
スプウンを口の中に入れた直後だったから、ほとんど鼻音で「うん」って答えてた。スプウンを素早く、口から出す際に、舌がちらりと見えた。さっと、しまいこんだわ。
「だから全ては行動で示したのかもしれない」
Yはカリィの横に置いてた左手を、少し自分の方に引き寄せながら、「だから言えなくなったの?」って、言ったわ。
「そもそも、時間の無駄なんですよ」ここで、Eは左手の親指以外の指で、右の中指を包み込むように支え、親指で中指の腹を、もみほぐし始める。
「人の愚痴を言いたくなったら、自分の努力が足りないんだと思うようにしてきました」咀嚼するY。
「だってそうでしょ。なんでみんなみんな」お店のステレオからは、Bill Evansの『You Must Believe In Spring』が流れてる。
「どいつもこいつも、俺たちくらいのやつはみんなそうですよ」
ここにはね、白いドアが二つあって、一つは出入り口。一つはトイレに繋がってるの。真ん中に丸いテイブルが一つ。その丸いテイブルの隣に、長机が一つ。二人はその長机がある反対側の窓際の席に座ってて、さっきも言ったけど、入り口から一番近い席に座ってる。カウンタア席は、六つあって、入り口から一番遠い、カウンタア席に、黒のパァカァを着た、女の子が一人。カウンタア席と、長机の間に、上からハンモックみたいなのが、ぶら下がってる。二人が座ってる、ちょうど反対側くらいのところにあるわ。
「忙しい。あぁっ!忙しい。あぁ忙しい、、忙しいよぉ。あんよはじょうず!!あんよはじょうず!!」この『あんよはじょうず』のところでEは、小刻みに手拍子を叩いた。この際、顔からね、もう目が飛び出そうだった。本当に。
「ちょっとだけ、声を落として」
「忙しいんですよ。そうなんです。忙しい人達なんですよ。とても忙しい人達なんです。これは紛れもない事実です。僕が不思議に思うのは、その忙しい人達は、それほどの忙しさにも関わらず、どうやら人の悪い面、あくまでその方々から見て、ということになりますが。そら、それほどの忙しさにも関わらず、人の悪い面を御指摘するお時間はあるんですよ。これは不思議ですよ。ひょっとして、総じて自分の自己紹介がしたいだけなのかもしれません。あくまでこれは、不思議だなぁということなんですが」Eは中指の腹を揉みほぐす作業を、再開。Yの言葉が効いたのか、本当にちょっとだけ、声のボリュウムを落としたわ。
「前に話したとき、良い面も、悪い面も、どっちも見るようにしてるって、そういいましたよね」
「言ったな」
「僕は思うんですよ。どんな物事にしても、そうですけど。良い面は必ずあると思いますよ。テロリストだろうが、とんでもない性癖持ちだろうが、僕は知ろうとさえ思えば、必ず肯定できる。だから努力が足りないんだと思ってやってきたわけです」
右手でスプウンを皿に置き、左手で紙ナプキンをとると、Yはもぐもぐしながら、口元を拭った。
「でもみんな。どこもかしこも、やたら卑屈になってるか、ちょっとずつ、ちょっとずつ、他人のことを馬鹿にしてるやつばっかりですよ。なんで人の良い面について話さないのでしょうか。僕は嫌なんですよ、人の悪口を言って、自分の自己紹介をするのが。本当に気持ち悪い。吐き気がするんですよ」ここで、Eの中指の腹を揉みほぐすような仕草は止まったの。今度はただ、中指の腹を、ぐっと押さえつけてる。そこを刺激するのが、心地よいみたい。
「本当のところ、吐いちゃったんですよ。えぇ」
Yはスプウンで、残りの白飯を崩しにかかった。白飯全滅なり。ルウに含まれることになった白飯たちは、そのまま、次々と、口元に運ばれては、吐息を吹きかけられ、唇にかすみ取られていく。
「この前、教育のセミナーに言って、個性の話をやってました。みんなたっぷり、私は個性を持ち合わせてる、みたいな連中が集まって。それで大真面目に個性についてみんなで話すんですよ。びっくりして言葉もでなかったですね。私はいよいよ自分がしたいことができるようになったとか、これは老いぼれの遺言ですとか、そういう前置きを長々と喋って、みんなそれを、必死にノートに取ったりしてご丁寧に刮目して聞いてるんです。そういうやつらが、普段何をしてるかって、言うまでもないじゃないですか。本当に突っ込みどころが多すぎて、もうほんと。吐いちゃいました」Eが話してる間にね、後ろに座ってた坊やのお母さまが、トイレに向かったの。それで、後ろの席は、老夫婦とお孫さんという形になったんだけど、そしたら坊やがまた、泣き始めちゃって。この坊やの叫びに負けないくらい、声のボリュウムを上げていくE。
「いやぁ、本当に、素晴らしいなぁもう!これでますます変態が増えるわけですよ。自ら課題を発見し、解決する力?考えてみて下さいよ。街中、自ら課題を発見し、解決する力だらけになった社会を。さっとすると課題を発見し、解決しようとする。私は曲がりなりにもそれを実践しようとしてきました。はは。その結果、多くの敵を作りましたよ。四面楚歌。自ら課題を発見する?はっきり言って変態です。でもまぁそんな変態が現代において求められているのかもしれないですね、ですので、これについて、異論はありません。だがしかし問題は次です。自ら課題を発見し、解決する。解決する。この点についてですが、明らかに説明不足だと思います。世の中には解決すべきことと、解決しなくても良いことがあるんですよ。そうですよね?なんでもかんでも、いやこれは課題だから。みたいなことを言って解決しようとする奴。本人は至って真面目ですよ。でもこういう奴は除け者にされるじゃないですか。自ら課題を発見して解決する、生きる力を養おうと、真面目にやってきた人が、生きづらさを覚えてしまう。そういった悲しい矛盾に行き着くんですよ。おかしいと思いませんか。なんで誰も、解決しなくていいことは、解決しなくていいんだ。って、言ってくれなかったんだ。そんでもって、君たちは、一人ひとりを見ればみんな良い人ですが、集団になるとてんでだめだ。とか言う人もおりますよ。そういう人が教育とは何か、長々と話すわけなんですよ。もう滑稽で滑稽で。本当に滑稽ー」
「手を置いて。あなた、目を合わせないね。お腹空かない?」この時Yは目に何かが入ったのか、目をいじりながら瞬きを五回、繰り返してた。
「目を合わせると、疲れるんですよ」
「紅茶でも飲んだら」
「飲んでます」ここで老婦人が、赤ん坊を抱きかかえ、立ち上がる。ちょうどこの時、店内にはDelroy Wilsonの『Dancing Mood』が流れてたんだけど、この老婦人はあろうことか、このミュウジックに合わせて、ステップを小刻みに、踏み始めた。
「人の愚痴を言ってる時間は無駄じゃないですか。時間の無駄ですよ。それで本当に幸せになれますか?って言いたいんですよ」ステップを刻む、靴音は教える。二人の、不適切な間と、声のボリュウムを。
「言ってるよ」
この老婦人はリズム感が抜群なの。一度だって、ステップを踏み間違えることはなかったわ。リズムは足裏からお尻、腰に伝わり、赤ん坊が腕の中で揺れ動いてく。それを見てた老夫は、眼鏡の奥で、目を閉じ、小刻みなヘドバン(初めてライブ会場に訪れたお客様が、羞恥心からか、あまり激しくならないような形で身体をゆすり、でも音楽は心の底で楽しんでいるの!と、思わせたいがために生じた動きみたいなやつ)を始めたわ。
「そうです。あなただから、言ってます」
「私に言うのは時間の無駄じゃないの?」赤ん坊が、揺れ動く興奮か、老婦人から香る、香料による興奮にか、さらに鳴き声のボリュウムを高めていたところで、お母さまは、トイレから出てきた。
「時間の無駄ですね。あなたにとっても。そこは本当に申し訳なく思います。だから感謝してる」
「えぇ、大いに感謝してください」と、頭を傾け、眉を寄せるY。お母さまが、席に戻ってくると、坊やは泣きやんだわ。老婦人は着席。老夫は目を開く。
「あなたはどう転んでも、自分を幸せにしますよ」Eはこう言うと、自分の両ポケットに手を突っ込む。沈黙。
「こんなことが言いたかったんじゃないんですよ」老夫婦とそのお孫さん、お母さまは、立ち上がり、レジの方へ向かったわ。
「もっと、別なことだった」
続いては福神漬けの登場です。いよいよラストスパァトに差し掛かってる。Yはこのラストスパァトで、福神漬けというカァドを切ったの。気持ちはわからなくもないわ。カリィのタイプにもよるけど。でも私はらっきょう派なのよね。カリィ教、らっきょう派。断然。
「ヘリウムガスで飛んでる風船が、百個くらいあったんですよ。僕の周りに」坊やとお母さまとおじさま。それからおば様が、お店を出る。からん、からん、と、扉の開く音は鳴り、扉の閉まる音は、店内に残る。
「そいつらを、手の届く範囲に置いときたくて、紐でくくったり、テープでとめたりしてたんです」それから、入れ違いに男が入ってきた。スウツ姿。ネクタイをいじりながら。そのまま、奥の黒いパァカァを着た女の子の、隣の席に座ったわ。
「でもたまに、紐がほつれたり、テープが切れたりして、飛んで行こうとしたりするんで、ずっと見張って、注意してたわけです。それで今までやってきたんですけど、この前数えたら、九十九になってる」Yの持つスプウンは、お皿の縁へ、残りのカリィアンドライスを寄せていく。Yはこの時、スプウンの動きから、目を離さなかった。
「一個減ってるんですよ。どうしてか」
Eは腕を組んで、片方の手を、もう片方の腕の裾に入れ、清時代の人、みたいなことをしてた。
「僕は思ったんですよ。このまま減っていくんだって。必ず。そういうことが言いたかった」
Yは最後の一口を、すくいあげる。口元に運ぶ。唇で受け止めると、下唇にはみ出たルウを左人差し指の、第二関節で拭ったわ。
「いつかもわからないんですよ」
「なんか言ってほしいなら言うけど。今はそっとしておいてほしいなら、言わないでおこうか?」Eは服の下から肘をいじり始めた。右手で左腕の肘。左手で右腕の肘を。
「意見を聞きたいです」
Yは、「ちょっと待って」って言うと、ゆっくりと噛みながら、右手で紙ナプキンを掴んで。口元を拭いた。もぐもぐ。それから左手で水が入ったコップを掴み、一気に飲み干すと、銀の水差しを掴んで、「私の場合は、ちょっと違うかな」と、話した。コップの中に、水を注いでいく。左手を首元の後ろに当てて、紙エプロンの結び目を、引きちぎる。身につけてた、紙エプロンを外しながら、
「日常の中で、いろいろあっても、なんとかなるんだけど。その日常の中で、風船みたいなやつが飛んで行く瞬間があるの。ふんふんふんー。って楽しく歩いてたら、あっ、飛んでっちゃった。って。たったそれだけなんだけど。うんざりするかな。それで何を批判するかって、それが日常に対してになっちゃってる気がする」この子は整理整頓とかは苦手なんだけど、洗濯物は綺麗にたたむ人だったわ。この時の、紙エプロンに対してもね。
「でも、そういうことじゃないんだよね」Yはこう言うと、両手を膝の上に置いて(Yはだいたい心にもないお世辞とか、作り話とかをする際には、必ずと言っていいほど『さぁ、はじめましょ?』みたいな感じで、視線を落とし、この両手を膝の上に置くやつをやるの)、Eのそばにあるティイカップに目線を合わせる。しばし沈黙。Eは窓の外に顔を向け、横目でYをちらりと見た。
「高校の時ね。女子校だったんだけど。バンドを組んでた子がいて」自分が吐き出す息を、できるだけ最小限に抑えるよう、声を発するY。
「そいつ、凄く面白い子で、成績はそこそこだったけど。髪がこんくらいで。自転車の漕ぎ方が、すごい前のめりなやつだった」Yは右の手の平を地面の方に向けて、自分の乳房の上辺りでとめたわ。
「とっても歌がうまかったな。音感もあったし。帰国子女なんだけど」この『帰国子女なんだけど』のところで、Yは一度、Eに一瞥をくれる。
「でも、PTSDってやつだったの。心的外傷後ストレス障害って言うんだけど。本人はそのころ、治ってる、治ってる。って言い張ってたんだけどさ。それもあってなのか、すごい歌は、うまいはうまいんだけど、日によって明らかに歌い方が違ったな。この世の終わりみたいな歌い方をしたと思ったら、幼稚園児がお遊戯会で歌ってるみたいな歌い方をする時もあった」ここで袖の中に入れた両手をゆっくりと抜き出すE。
「どんなことがあったとか、どうも、詳しいことは教えてくれないし、私もちょっとしか知らないし、ここでどうこう言うことではないんだけど。その子は男性が本当にダメだった。同じ空間にいるくらいなら大丈夫だった?のかな、今考えればそれもよくわからない。閃輝暗点って、わかる?」EはYの目線を追う。どうやら自分のソオサァ辺りに目線が向いていることを発見する。
「わからないですね」
「目のちょっとした病気なんだけど。ちなみに私もその病気を持ってて。特に、めちゃくちゃ厄介ってわけではないんだけど。目の中になんか、丸くて、ギザギザした輪っかみたいな。小さく光るやつがたまに出てくるの。で、だんだん大きくなっていって、視界が狭まっていってね。それが始まると、わたしもじっと目を閉じて、寝たふりをするくらいしかできないんだけど、私も最初にそれが出たときは、中学生くらいで。これ、こっからどうなんの?って感じだったんだけど、ある程度大きくなると、輪っかだからか、視界の外にいっちゃうの。視界の外側にどんどん広がってく感じ。うん。わからないだろうけど。本当にそんな感じなの。イメージして。このあと、私の場合は、頭痛が来たり来なかったり」Yは自分の左肩、首の左側をさすったりして、暫く、間を作ってた。それからYはEの目を見て少し笑ったわ。
「この閃輝暗点ってやつを、そのバンドを組んでた子も持っててね。どうやらPTSDと関係してるのか、よくわからないんだけど。とにかくそれが出ると、発作が来た。とか言って、目を叩くのよ。もうほんと、すごい勢いで。もう目が潰れるんじゃないかってくらい。えんぴつなんか持ってたら大変だよね。すごい痣になっちゃったときもあってね。せっかくのかわいい顔が台無し。まぁでもそういうときは、一応対処法を編み出してて、三人か四人がかりくらいで、右腕を一人。左腕を一人。後ろから抑えつける人を一人みたいな感じで。めちゃくちゃ体力を使うんだけど。だいたい三、四十分くらいずっと抑えつけて。歌を唄うの。そしたら一緒に唄ってくれるの。普通に意識はあるからね。どんな歌でも唄ったな」ここで、初めてティイカップの取っ手に、Eの手指が触れる。
「今でも覚えてる。あの歌声は、何にも代えがたいものだった」Tカップがソオサァの上を飛ぶ。生ぬるい液体が、Eの口の中へ、こぼれ落ちる。
「あれは、高校二年の冬だった。放課後に教室で二人で残っててね。夕日が廊下から見えるくらいだった。その日は朝から調子が良さそうだったんだけど。教室の黒板で絵しりとりをしててね。あいつ、絵もうまいのよ。悔しいけど。じゃんけんで負けた方が黒板を消すってことで、じゃんけんしてね。私が負けたから、黒板を消してたの。不思議なんだけど、なかなかうまく消えなかったんだよね。なんかそういうときってあるでしょ。黒板消しの裏を見た瞬間くらいだった。その子が教室を飛び出す音が聞こえて。自分でもよくわかんないんだけど、追っちゃったんだよね」Eはしばらく、その手に持ったティイカップを離さなかったわ。Yの目線の中に、そのティイカップが入っていく。
「足の速さでは私の方が勝ってると思ってたから、すぐ追いつけると思ったんだけど。どこ行くの?って大声で言った。返事がないから、私はもう本当に夢中で走った。外階段の方に出たから、反射的に唄ったの。メリーさんの羊。なんでメリーさんの羊だったのかな。もう、私もそれくらいしか浮かばなかったからかもしれないけど。階段を登りながらね。あと少しだったの。一メートル?もう本当にそのくらいだった。それはもう本当に。本当に。世界が沈黙するくらい綺麗な唄声が聞こえたの。それで私、足が止まっちゃって。目の前を唄いながら落ちていったわ」Eは吐息が音を立てないように口で呼吸をすると、紅茶風味のする唾液を、飲み下す。目の前に、大きな渦の流れを作り出す。そこへ向かった、あらゆるものはなだれ込み、溶け出す。そうてまた、より大きな渦を作り出す。忘却。何もなかった、みたいになるの。
「頭から落ちたってより、目?目から落ちた感じね」ここで、二人の目が合う。
「その時にしか出てこない音があると思う。言葉だって、そうでしょ?」この言葉は、Eに対する質問だったのか、あるいは自分に対する質問だったのか、私にはわからない。何れにせよEはここで、しばし沈黙を続けた。自分が、(少なくともYに対しては)安易なやつだと、思われたくないの、こいつは。
「いや、僕の口からはどう言えばいいか」
Yは目線を外の方に向け、「風船みたいなのを、ずっと見張ってるんだったよね?それで、この前数えてみたら、一つ減ってた」って、口にした。
「そうです」二人が座ってるところの窓からはちょっとしたお庭が見えるの。さっきも言った、屋根付きのバルコニイの中にね。庭って言っても、そんな大きくはない。ちなみにそのバルコニイの先に、道路が見渡せるようになってる。まぁ見えちゃってると言った方が適当ね。そこに数多ある花の一つ一つを見やりながら、Yは空気を振動させ、音声を送った。
「なんで数えてみたの?」Eは角砂糖を一つ、つまみ、ティイカップの中へ。ティイスプウンで、かき混ぜ始めた。
「なんででしょうね」
「知りたくなったんじゃなくて?」角砂糖がある程度、形を失いかけたところで、Eはティイカップの取っ手を、再び掴む。今度はごくごく、飲み込んだわ。
「いや。なんとなく数えたんですよ。理由なんて特になかったです」
「言葉にすると、全部嘘になっちゃう気がするって、言ったよね」Eはカップをソオサァ上に置くと、Yの目を見やり、小さくうなづく。
「私もそれは、そう思うかな。たまーに。本当のことは、ずっと。本当のままにしておきたいなって」
「一つだけ言いたいことがあります」Yは窓ガラスからEの方へ、首をひねる。飲み干したティイカップを見ながら、「もしあなたが女でも、もう少しブスがよかった」と、E。
「それは、褒めてるの?」
「褒めてるんですよ」ここで、笑顔が張り付いちゃったおじさまが登場。カリィとティイカップ、ソオサァをお盆にのせていく。
「面白くないよ」おじさまはスプウンやら、角砂糖の入った器やら何やら、机にあるものを一通りお盆にのせると、二人の元を、去っていった。おじさまが去ったことを確認すると、Eはこう言ったわ。
「あなたの性格の悪さを、みんな知らないなんて、そんなの絶対おかしいですよ。狂ってる」
「そっくりそのまま。お前に返すよ。私は甘い人なだけ」Yはこう言うと、右手でアルペジオを弾いてる、みたいな仕草を見せた。
「だいぶ話せるようになりました」
「そうだね。もうあんまり声を聞きたくないかも」大きな欠伸をするY。わざとらしく。Eは真剣な表情をYに向ける。
「風呂に入ろうかと思います」
「入ってください」左ポケットに入った携帯で、現在時刻を確認するE。
「次会うときは、敵同士かもしれません。そのときは一戦交える前に、共に唄いましょう」Yはマフラアを首にぶら下げ、巻きつける。
「うん。お前が歌い出したところを、一発で仕留めるからね」Yはこう言うと、首の後ろに、両の手を回す。頭を下げる。マフラアの対を柔らかく、結んだ。

 

 

ペダル

「それでね、今は、自分のことがミックスベジタブルのニンジンか鼻糞くらいに…」
「悪いけど、今は。頭の痛さが全体の感想を上回ってる」Hは路側帯、Aは歩道にそれぞれいたの。この時、周りにはHとAを除き一人の人間も、いなかった。
「ねぇ私、あるいてる?」Aはこう言うと、顔を赤らめ、視線を落とす。路側帯にいる方は自転車のサドルが異様に高い。もうほんと、限界の高さまで(というか限界の高さを超え)サドルをあげてる。だからか、Hは自転車に乗ってるときは、すごく姿勢が良く見えるの。普段から姿勢は、まぁ悪くはないんだけど。それと、この子はお日様が出てる日はこの上なくまぶしそうな顔をしてる。多少、雲が覆っててもね。目が殆ど、開かないの。極め付けは、『なんだここ、太陽しかねぇよ?』って、科白。デイトの度に、こいつを聞かされた数々の男達は、みんな揃って、気分を悪くしたわ。Hは左足をかかとから降ろし、右脚を折りたたむ。自転車を左側に傾け右脚をゆっくりと、地面につける。右脚を一蹴。あたりにスタンドをおろした音が響いたわ。それから両手にはめてた藍色の手袋を外して、自転車のカゴへ。Aは右手でブレエキを強く握り、自転車は跨いだまま、両手を降ろす。Hのまあるい背中に目を止めた。Hは耳をすませる。瞼を閉じると、口元が少し開き、一瞬、微笑を浮かべる。口笛を吹き始めたの。Hから見て、左手に病院があって、右手に、唐揚げ屋さんがある。あまり知られてないけど、ここの唐揚げ屋さんはおいしいわ。前方から自転車に乗った男子高校生が二人。
『ソラミーーーー   』
『ソラレーーーー   』
テンポ七十、四分の四拍子でこの旋律は進行し(Hはこの四分の四の四泊目の裏に、正確に息継ぎをすることを忘れなかった)この四分の四の二泊目の表がレとミの違いというだけの二種類の旋律を十五回は繰り返し吹いたところで、やめてくれたわ。この十五回のうちに、Aが自転車を降りながら対向車線を通る車の数を数えたり、携帯カイロを上下に振ったり、二人の高校生が自転車に乗りながら犬のような顔をHに向けて通り過ぎたりしたんだけど、Hはそんなこと、知らない。手指が震えだしていたの。目をじっと閉じたまま。目を開けて、自分の黄色い自転車の方を見ると、無声音で「シ・ネ」と、発声した。Hはよく、自分の中で考えが行き詰まってたり、気分があまりにも高揚してたりすると、とにかくまず自分自身を落ち着かせるために、この『言葉のおくすり』を反射的に使うの。少なからず効果を感じているらしいわ。素敵ね。それから右手で紺のコオトの左袖をつかむ。そこから左手を引きずり出し、右肩辺りに持ってくる、つかむ。地面の方に引きずり降ろし、コオトをとると、左手から右手へわたる。ここで力を込め、そのまま自転車のかごの中へ。文字通り、突っ込んだわ。
「行くよ」右手でサドルを支え、左手で左側のハンドルをつかむと、スタンドを右足後ろ蹴り一発。渾身の力で、蹴りあげた。甲高い音が辺りに響く。それから、そのまま自転車を引きながら、一歩一歩、コンクリィトの硬さを随時確認するように、歩き出す。Aも、これに習う。雲雲は、ほんの少しの隙間も作らずに、身を寄せ合っていたわ。あたりには遠くから来るカラスの鳴き声と、Hがたまに鼻汁をすする音で満ちた。信号。
「ほら、ちょうど赤になった」信号で立ち止まる。Hは左手の平手打ち一発で垂れかけた鼻汁を道路脇に飛ばした。すかさず、ポケットティシュウを取り出すA。前方に、同じく信号待ちをしている男が一人。自転車に乗ってる。しかし彼は信号を待っている間、地に足をつけたくないのか、ゆっくりと旋回していたの。せわしない男ね。Hは男の方を少し見てから。自転車のかごを漁り始める。それから、小学三年生くらいの男の子がHの近くに寄ってきた。きったないランドセルを背負ってて、校帽を首から下げてる(なお、校帽のゴムが伸びきってるわ)。Hは自転車のかごをあさる。手袋とコオトしか入ってないんだけど。次の瞬間、その男の子も旋回を始めた。男が左回りなのに対し、その子も左回り。ちょうど、公道が磁場を形成しているかのような格好になった。しかし、その男の子は速いわ。テニスのクロスオゥバァステップのような動きを織り混ぜながら、旋回してるのよ。ちなみにその男の子は旋回している間、前方の男から目を離さない。校帽が、左右に、ゆれる。信号が、青になりました。HはAからポケットティシュウを一枚取ると、自転車を引きながら走り出した。危険ね。男がHを避けるように横断を始めた時、ランドセルの少年は、満足そうに校帽を自分の頭にかぶせ、ゴムを咀嚼。Aは小走りの後、自転車に勢いよく飛び乗ると、ペダルを漕ぎ始めた。
「あのさ」男、通り過ぎる。Hは横断歩道を渡ると左に曲がって、夢中で走ってた。視線を落したままよ。Hは小学生の時にね、好きな男の子から走り方を馬鹿にされたの。そのときから自分の走り方に対して、ある種のコンプレックスをもっていたんだけど。
「あのさぁ?」でもこのときはそんなこともお構いなし。勇往邁進。さぁ、道を開けて。それでは始めるわ。これが世間をあっ、と言わせた、私のフォゥムなの!と、いわんばかりに、その右肩と左肩を交互に揺らしつつ、前のめりに直進する彼女独特の走法を、ご披露した(自転車を引きながら)。市電が、クラクションを鳴らす。Hの髪の長さは肩にかからないくらいで、横は毛先を口元に持っていけばちょうど咥えられるくらいなの。前髪がなびいて、綺麗なおでこが出てるわ。市電って、毎日事故りそうになってるの。実際事故になることもあると思うわ。車のマナァが悪かったりも、あると思うんだけど。でも、見てて嫌な気持ちはしないのよ。夜中に線路の上で寝てる酔っ払いとか、たまに線路上を走る珍走団とか、そういうのも含めて。この街に残ってほしいもの、No. 1ね。市電沿いを走るH。右手で掴んだティシュウが、風でなびいてる。素晴らしい疾走感だわ、とでも言いたげね。歯を食い縛る。この歯を食い縛った時に、Hは左側の顎に痛みを感じたわ。実はこの子、顎関節症なのよ。そしてなぜか自分が顎関節症であることを誇りに思ってるの。
「なにぃ?」と、H。市電に抜かれる顎関節症の女の子。市電が街を駆ける音に、負けないくらいの声を出してた。なおも、右肩と左肩を揺らしつつ、前傾姿勢で走るフォゥムを継続していたわ。
「どこまで走るの」手をほとんどふらない。まぁ、自転車を引いてるからでもあるんだけど。自転車を引いてなくてもそうなのよ。その分、肩でバランスをとってるの、彼女。多分。見渡す限り、雲は空を覆ったわ。不思議。Hはほとんど、地面の二メイトル先くらいまでしか見てないのに、誰ともぶつからないの。まぁ正確に言うと、誰もが彼女を避けて歩いてるからなんだけど。愉快ね。Hは勢いよく、右にまがる。街も人も、全てハリボテ。ただ、二人の少女だけが、この世界を駆け抜けているように見えた。掃き溜めに鶴。遠くの方で、何かを叩く音が聞こえるわ。お布団かしら?いや、もっと甲高い音ね。
「なに?」Hは前傾姿勢をやめ、少しずつスピィドを落とす。立ち止まりました。自転車のスタンドをおろして、路側帯の中に止めると、両手を、ズボンの太もも裏付近ではたいた。それから、左足から順に足を折りたたんで、その場にしゃがみこむ。身体中から汗が滲み出てた。
「あたしさ」Aは両手でブレエキを、やさしくかける。サドルから降りた。口から白い煙を絶えず漏らし続ける、H。Hはネコをなでる仕草を見せた。
「ミャァァァァゥ」この子は、猫の鳴き真似をする時に、いつも左側の鼻の穴が大きく開いちゃうのよ。すっごく不細工な顔になるの。私が猫だったら絶対近づかないわ。普通にしてれば、それなりに可愛らしいんだけど。
「大学辞めるんだよね」Hはすぐ野良猫を見かけると名前をつけたがるの。でもね、ここらへんの野良猫の半数以上には名前をつけたはずなんだけど、Hはほとんど忘れてる。だから、同じ猫に二つ三つ名前がついちゃうこともあるわ。Hがちゃんと覚えてるのは、『朝倉(アメリカンショートヘアらしきもの)』、『ボルデスハム(キムリックっぽい奴)』、『モンテスキュウ(ジャパニーズボブテイルらしき奴)』『三学期(ブリティッシュショートヘア)』、『ゴリラ(ボンベイ)』の5匹だけ。実際、野良猫じゃないかもしれないんだけど。
「なんて?」Hは左足に重心をかけて、ゆっくりと立ち上がると、こう言ってた。その際、Hは肩をぶるっと震わせたの。車のライトが点滅しながら、2人の横を過ぎる。
誰かが車の扉を閉める音が聞こえたわ。それから、何か、重たいものが、コンクリートの上で引きずられる音。前から、中型犬くらいの犬を散歩させてるおじさま。黄色い服に、灰色の防弾チョッキみたいなのを合わせて着てる。お洒落ね。
「もう辞めるの、全部。誰も、私のことを知らない所に行く」
Hは自転車に手をかけて、スタンドをゆっくり蹴りあげる。それから、犬がHの方に気づくと、すごい勢いで吠え始めた。するとおじさまが「キクコっ」って言ったわ。それで、両手で思いっきりリィドを引っ張ったりしてるの。犬はひゃあひゃあ言ってる。Hは犬の方を避けながら、とっても小さな声で「そうか」って囁いて、おじさまに優しく微笑みかけた。
Hは前を向いて、自転車を押しながら進む。Aが、これに続く。この際、道路を挟んで反対側に、織部色のスウェタアを着た女の子が歩いてた。紺色のスカァトを履いてる。二人と同じ方向に歩いてて、ちょうど同じくらいの歩幅だからか、並走してるような形になったわ。顔までは見えないけど。Hは大きく息を吸って、二度、くしゃみした。自転車のカゴに向かって、吐きすてるみたいに。足をほとんど地面から浮かさずに、歩いてる。前方から男の子。
「楽しかった?今まで」Hはこの男の子を、知ってるのか、じっと見てた。男の子の方も、Hをじっと見てたんだけど、距離が相手の顔がはっきり見えるくらいに縮まると、男の子が先に視線を落とす。
「うん」Hは視線を道路の方に向ける。何てこともないわ、お互いに、知らない人だったの。お互いに、お互いの知り合いに、似ていたため、顔をお互いにうかがってしまったんだけど、どうやらお互いに、思ってた人と違うことを知り、急に何もなかったことにする。どうでもいいんだけど、こういう、人間が『急に何もなかった感じ』に振る舞うのって、なんかぶさかわいいなって思うの。昔はこういうの、気持ち悪い。と思ってたんだけど。最近、違うなって。不細工よね。それでいて、かわいい。
「そう」Hは視線を道路の方に向けた時に、反対側にいる女の子の存在に気づいたの。どうやら同じくらいの歩幅であることも。信号が点滅。ここでHは先に渡るも、Aは横断歩道前で止まる。対面の信号が青になった時、二人は同時に渡り出し、ここでAは叫んだ。
「だらしない格好して、だらしない男を捕まえ、だらしない恋愛をする、あんたでいてね」へんなところに車が止まっちゃってるの。信号が黄色になったところでアクセルを踏み込んだくせに、渡れなかったパターンね。Hは横断歩道を渡りながら、その車のナンバァプレイトの方を見てたわ。本当に。渡り切るまで見てた。
「だらしない服着て、だらしない女と歩いて、だらしない話をする、あんたでいてね」と、Hも叫ぶ。歩きながら。Aがいる方の道路脇に、公園があるの。一人の女の子と、そのお母様が、ブランコに乗ってる。でも漕いでは、ないわ。Hは目をほとんど動かさない。どこか、じっと前の方だけ見てる。ゾンビみたいに。Aは後ろを振り向くと、再度、叫び声をあげる。
「思慮深いようで、自分の世界観に酔っちゃってるだけ。頭デッカチャン!?たまに結局、本当にちんぷんかんぷんなことをしてしまう、人間味のある、あんたでいてね」この、Aが『デッカチャン!?』と、言い放ったところで、Hは瞬きをした。実は、ちょっとくさいのよ、この辺。なんかの植物の臭いなんだろうけど。私なんかは、ここを通るときはいつも息を止めるわ。軽くね。駐停車禁止区域の標識のすぐ前に車が停めてある。Hは自転車のハンドルを右に向けながら、そいつをちゃんと避けてた。どこに目がついてたら、こんな所に、お車をお停めになられるのかしら。それから、今度は左にハンドルを向け、Hは叫び声を上げた。
「なんかを批判することでしか、自分をうまく紹介できないし、曖昧なものは曖昧なままでいいとか言うくせ、結局曖昧じゃない状態を選ぶし、たまに爆音で悲しい音楽を聴く、中途半端に悪人ぶってる、あんたでいてね」
後ろから前のめりになってる自転車のおっさんが、Aを追い越す。そいつはどうやら、タバコを咥えながらペダルを漕いでて、吐いた煙がAの顔に到達。飛散。Hは自転車を、自分の方に寄せ、右足のトウを、地面に対し、平行に、突き出す。そのままサドルを跨ぎ、右側のペダルに踵をのせる。反対側のトウは、地面を突いた。

 

 

幸福な言葉たち

大なり小なり、いろんなサイズの自転車が、今も使われてるか、わからないやつも含め、ほとんど地面に横たわってる。前の日がすごい強風だったの。街中、洗濯物が散らばってたわ。二台くらいだけ、ちゃんと立ってる自転車があるの。Cは、自分の自転車のサドルを両手で引っ張ったんだけど、うまく両側の自転車で挟まってて、取り出せなかった。それで、自分の自転車が取り出せないことがわかると、両手を自分のお腹に当てて、その場にしゃがみこんだ。Cは、倒れてる自転車たちを入念に眺め始める。まるで、失った戦友達の、墓場にいるみたいに。
「幸福な。言葉たち」Cは左手で自分の口を覆うと、手の平に自分の吐息を優しく吹きかけながら、こう、ささやいた。すべて無声音だったわ。右手は下腹部をおさえてる。
「幸福な、言葉たち。第三章、その十二」
「まず人の話をよく聞き、今、この場面で、何が求められているか、一緒に考えてみないか。ーT先生」Cは黒のジップ付きのパァカァを着てて、眉を上げたり下げたりしながら、なにやらぶつぶつ言ってるの。目はほとんど動かさずに。それから、地面に左手をついて、立ち上がると、駐輪場の中をまっすぐ歩き始めたわ(ものすごい猫背)。Cは、今度、裏声をうまく使い、小学二年生の天才子役みたいな声で、こう語りかける。
「第二章、その六。君は、性格で損してる。ーH先生」十五歩くらい進んだところで、立ち止まり、倒れた赤い自転車を目視。スポォクが一本、外れてるの。それからCは一歩、大股に踏み込み、腰を落とす。その自転車のサドルに右手を、ハンドルに左手をかけて、力いっぱい引っ張った。隣で仲良く倒れてた自転車に、ハンドルがうまく食い込んでたんだけど、もうほんと。力いっぱい、引き離したわ。自転車の体勢が整うと、右の手の平でサドルの上を軽く払い、今度はその隣の自転車に手をかけ始めた。この自転車に手をかける時、Cはまたも、天才子役みたいな声を出したわ。
「第五章、その二十四。僕は君の人生に、あまり興味がないのかもしれないよ。ーO先生」Cは髭が乱雑に伸びてる。なにより中途半端に生えてるから、他人から見て、口元が汚い印象を与えるの。今度の自転車も、隣の自転車のスポォクの間に、ハンドルが食い込んでたんだけど。今度は食い込んでるハンドルを、左手でやさしく握り、入り込んでる場所を、右手で抑え込んでから、優しく、ひきぬいていく。ハンドルが抜けかかると、Cはハンドルを右手に持ち替え、左手でサドルを支える。自転車を起こした。ここで、突然。Cはその顔に微笑を浮かべる。目を見開いた。ハスキィボイスもとい、声がかっすかすに枯れた人、みたいな声でこう言った。
「第五章、その十一。いちいち、自分の面白さや才知をひけらかそうとしないでくれ。ーK氏」
Cはなおも一台ずつ、自転車を立て直していく。今日は、どこか、空が近いわ。空が近いんじゃなくて、雲が近いのよね。きっと。ここの駐輪場は屋根とかはないの。もしかして、本当は駐輪場じゃないのかもしれないわ。大学の敷地内だとは思うんだけど。雑草も伸びるだけ伸びてるし。もはや雑草と呼べないかもしれない。何台か本当に、今も使われてるなら、相当趣味が悪いやつか、なにか哲学をこじらせちゃった人が乗ってるようなやつばっかりだもの。お次は、とっても低い声で、話すスピィドに緩急をつけながら、鼻の穴を大きく広げて、こう言ってた。
「第四章、その五。仮に七回生まれ変わっても、あなたが車に轢かれているところを見て、私は一暼の憐れみも感じないね。ーM氏」
Cは、どうやら自転車と話してるのよ。声の高さや、緩急、抑揚を変化させたり、させなかったりしながら、語りかけてる。今度もさっきと同じ。
「第三章、その九。あなたは、具体性が、無いーE氏」ここで、Cは自転車以外のものに初めて手を触れたの。それが駐輪場と思われるところ(私も正直に言うと、自信がなくなってきたの。ここはゴミ置場かもしれない)の一角に落ちてた?いや、置いてあったんだわ。置いてあったということにするわ。誰かがちゃんと置いたのよ。カホンって楽器なんだけど。だってそうでしょ?どんなに不注意な人でも、カホンを落として気づかない人があるかしら?それとも、カホンが空から降ってきたのかもしれない。大惨事!でもこれは辛うじて原型も留めてるし、まぁ穴のところに少しヒビが入ってるんだけど。えぇと、サウンドホォルって言うのかしら。私はこの名前好きよ。サウンドホォル。昔、一寸だけえっちな感じに聞こえる言葉で、しりとりをやったんだけど、なんであの時、この言葉を思いつかなかったのかしら。ちょっとだけ、後悔してる。ちなみに確か、その時は『ひみつきち』が優勝したの。兎にも角にも、Cはこのカホンに触れたわ。ちょっと汚れててね。カホンの上の部分を右手で少し払うと、Cはそこに腰を下ろした。それでまた、小学二年生の天才子役みたいな声を出した。
「第一章、その十五。ー君はもう少し、元気を出しなさい、大事だよーA先生」
Cは黒いズボンの両ポケットに手を突っ込んで、右手でオイルライタァ、左手でボックスのタバコを取り出したわ。左手だけでうまくボックスを反転。それから右手の親指と、人差し指でオイルライタァをつまみながら、中指一本でボックスの蓋を開けた。小指と薬指の間に、タバコを挟んで、口元まで運ぶ途中で手が止まるE。そこでは、全て無声音で、口をアヒルみたいな形にしてから、こんなことを囁いた。
「第五章、その十二。自分以外の人が、よくわからないような話をしてね、人から共感されないことが、そんなに嬉しいの?ーSさん」
タバコを唇で捕まえると、左手ごとボックスのタバコを左ポケットにしまい込んだ。そのとき、なぜか右手も降ろしたんだけど。Cがサウンドホォルを覗き込むような形になってね、右手首を素早く捻る。カムがキャップの内側に当たった音と共に、ケェスが開いた。親指でフリント・ホイィルを回転させると、青い炎が上がって、あとはタバコの先っちょを、火に近づけてから、すっと、吸い込んだ。ポケットにしまい込んだ左手を出してきて、ケェスを閉じ、そのまま左手でオイルライタァを右ポケットに入れて、右手の人差し指と中指で素早くタバコを口から離すと、息を小さく吸い込んで、鼻から煙を出し切ったわ。
「幸福な、言葉たち。第三章、その十七。善処しますじゃなくて、やめろって言ってんだよーーF先生」
この時のCは、目をパチクリさせながら、無声音を出してた。例えば、タバコを吸いたい言えば吸いたいし、吸わなくてもいいといえば、吸わなくてもいい感じがするときがあると思うの。私は。こんなときは、例えばカラスが落っこちてくるとか、人が落っこちてくるみたいな現象が起こったら、思わずタバコに火をつけると思うわ。けど、実際のところ、そんなこと、まず起きないでしょ。だからタバコを吸うことは、ほぼほぼないの。でもそのほぼほぼないことが起こってしまった類い稀な事例だと私は思うのよ。鳥頭白くして馬角を生ず。だってカホンに座ってるのよ。駐輪場と思われる場所で。
「第四章、その二。幸、うすい人。ーJ氏」
Cは前傾姿勢でカホンに座ってて、右足より左足の方を、足の平ひとつ分前に出してる。左手の先を、右ポケットに入れたまま、煙を下に向け、吐ききる。Cがタバコをつまんでる右手の甲を右膝に置く際、ちょうど自分が吐き捨てた他人への自己解釈の中に、『君も、含まれている』と告げる言葉のよう、浮上する煙はCを包み込んだ。
「第五章、その七。あんたは、つまらないんじゃなくって、くだらないのーN先輩」
Cは対面する木々を眺めた。太くて硬そうな木。正確に言うと、その木々の葉っぱ達を眺めてた。Cはことあるごとに、「小人になったら、木々の陰毛を彷徨いたい」って言ってるやつだから。きっと悍ましいことを考えてるに違いないわ。無声音が続く。
「第二章、その十。君はどうしたいの?それからじゃあ、どうすべきなのか、考えるべきだよね。ーY先輩」
タバコを右手の人差し指と中指の間で挟んだまま。一枚の葉を見てるの。その葉だけみんなと違う方向に揺れててね。それから、タバコの火が消えたわ。ポケットから左手を取り出し、背中にあるフゥドを掴む。自分の頭にかぶせ、サウンドホォルの方を向き、目を閉じた。
小学二年生の天才子役と思われる声で、「第四章、その十九。遠くの海を眺めなさい。目が、よくなるからねーT氏」と、C。
目を開けて、タバコには、もう火が灯っていないことを知る。右手で軽くスナップをきかせ、サウンドホォルの中へ、放り込んだ。それから足の爪先に、力を込めて立ち上がると、Eは対面する木々の方へ、歩き始めた。ちなみにこの時Cは、長年、夢を追い続けるも、売れることのなかった、ハァドコアバンドのヴォオカルが、ラストライブ、最後の曲の前フリに繰り出す、力の限りを尽くしたような声で、こう言ったわ。
「幸福な、言葉たち。第一章、その十六。キレイな目をしてるのにね。ーーD先生」

 

 

 

ファミレスファイト

「ねぇ、私がどれだけいらいらしたか、わかった?」鼻の左側の穴を、左手の親指でほじくり、鼻毛に粘着した、鼻糞を、爪先で搔き出すK。そのついで、「わかったよ」って、唇を動かした。
「あぁもう、なんなの」こいつ(S)は、この世界に向けて言ったのよ。そうよね。なんなの?この世界に生きてる限り、切り離せない話題だわ。
「あいつは工学部だな」と、K。メニュウ表が立てかけてある場所から、塵紙を一枚取る。そこに鼻糞をこびりつけ、窓辺に目を移した。
「あの性欲が強そうな丸眼鏡のことかい?」と、I。三人は窓際の、雲がかった朝暘にウインクできる席に座っているの。IはKの正面に座り、そのIの肩にレストランの通路沿いから、Sはもたれてる。
「性欲が強いかは、俺にはわからないけどな」このレストランは、大学のキャンパスに沿って車が流れていく道路の、ちょうど真向かいにあるビルに位置してる。二階にあるの。三人が座る席からは、そこの道路を流れる車だけでなく、歩道や路側帯を流れる朝一の新鮮な大学生を視野の中に認めることができたわ。
「いかにも。朝一のペッティングを終えてきたみたいな顔してる」Iがそのときちょうど歩道を歩いていた大学生を見ながら、こう言うと、Kはココアの粉が沈殿したコァヒィカップの中へ、塵紙をぽとりと落す。続けざま「あんな小洒落たベルボーイみたいな恰好をした紳士が?」と口にした。
「あんたわかってないね。小洒落たベルマンみたいな格好をしたやつが、一番性欲強いの。君の考えの甘さ、80パーセント」Iの肩から、Sの頭部が離れる。窓辺を一瞥するなり、Sは口を開いた。
「あいつ、中央食堂前の草むらでよく女の子とたむろしてるやつじゃない」
「そうそう、よくその草むらで精神的ペッティングをしてるんだ」Kは唇を左右にしぼり、鼻の穴の通気性を確認。それから、「君の心、大丈夫?」と、呟いた。
Sは御手拭きやプリントが散らばる机の上から、ワインレッドに塗装された、てかてかの手垢付き携帯を手に取る。再度Iの肩に頭部をのせる。携帯のビデオ機能で、左斜め前の席に座り、鼻の穴に指を突っ込んでいる男性を撮影し始めた。携帯の画面に映し出される男性に向け、Sは話しかける。
「ねぇもう、そういう何学部か何かとかもうどうでもいいからさ、私の話、聞いて」
「今の言葉、効いたよ?」と、膝掛けの位置を整えるI。
「お前、何やってんだよ」当ファミリイレストランでは、外の薄明かりと、暖色の照明が混ざり合い、独特の薄暗さを作り上げていたわ。ちなみに机の上にはそこら中に紙やら筆記用具やらが散らばってた。
「うん」と、S。
「ちょいちょいちょい」と、言いながらなおも鼻糞を取り除いていくK。右手で携帯をいじくってたんだけど。ここで窓辺に携帯ごと、手を置いた。Sは動画の撮影を停止すると、Iの肩を離れる。携帯を机に置き、今度は足元(膝掛けの中)にあった湯たんぽを、両足の平で取り押さえる。右腕を下ろし、湯たんぽを掴むと、顔面の前に持ってきて、上下に振り始めたわ。たっぷんたっぷん。
「ほら、人の話、聞かないから」Sがこう言うと、湯たんぽの揺れに合わせ、身体を上下にふりながら「ちょいちょいちょいちょいちょいちょいちょい」と、I。
「聞いてるよ」Iは机の上に手の平を添え、振動が三つのソオサアとコァヒィカップに伝ったわ。
「ちょいちょいちょいちょいちょいちょいちょいちょい」
「静かにしろ」Kの目前にいた物体は、静止。ここで、右太ももを激しく叩き、け、ら、け、ら、と、笑い始めるS。なおも湯たんぽを上下に振り続けているわ。Kが鼻糞を取り除く作業をひと段落させ、Sの方に顔を向ける。一通り満足したのか、湯たんぽをIの膝掛けの上に。
「私はもう、フざけたこと以外、何も言えなくなったな」と、S。Kは右手で後頭部をさすり、左手で角の無い、消しごむの裸体を掴む。地毛でもあり、寝癖のようでもある、へんてこな後ろ髪から、ふけが散らされる。
「ふざけた顔してるからね」Kが後頭部をさすりながらこう言うと、Sは、「ははは」と声を発し、反転。膝掛けは崩れ落ち、膝はIと共同で座るソファの上に。レストランの喫煙席には自分達以外がいないことを目視すると、こう、口にした。
「ねぇ、真面目な顔してると、怖いよ。って言われるしさ、頑張ってニコニコしてると、何考えてんの、って言われるしさ、どうすればいいと思う?」
「しらねぇよ、その顔に生まれた時点の問題だ」Iの膝掛けに置いた湯たんぽを取り、Sは再度座り直す。掛け布団を取り、自分の背中の下へ、湯たんぽごと、しまい込んだわ。白い天井に、シミがついてるの。いくつか。そのシミを眺めながら、「ここにいるの何日目?」と、I。
「しらねぇよ。四日目くらいかな」と、K。こいつの『しらねぇよ』ってやつは、『君は今、私に。とても心地よい間合いで、質問をしたのですよ』くらいの意味なのよ。
「あいつは人文っぽいな」Kはこのとき、消しごむの黒ずんだ箇所を先ほど鼻糞をほじくり出していた方の親指で愛撫。視線をレストランの窓辺に移し、公道を自転車で流れる一人の若造に目を留めていた。
「いや、理学部かな」とI。
「なんで?」Kは愛撫を終えたばかりの消しごむを、机上へ放る。このとき、そこら中に散らばったルウズリイフやプリントの中を奇しくも駆け抜けるような形となり、また、いくつかのコントロウルを失った愛撫後の裸体は、音を立てず、倒れこんだ。
「人文では見たことないよ。それにあいつはピロウトークで宇宙にまつわる話、例えば今目にしている星々の光は一体、何年前のものなんだ?とか、その程度の浪漫溢れる話をしていれば他人の子宮を喜ばせることができるみたいな考えをもっていそうな顔をしてるんだ」再度、手垢付き携帯を手に取るS。先ほど撮影した鼻糞を取り除く男性の動画を眺めていた。
『ねぇもう、そういう何学部か何かとかもうどうでもいいからさ、私の話、聞いて…今の言葉、効いたよ………お前、何やってんだよ……うん…ちょいちょいちょい…』
「お前は人の顔を見ただけで、どんなピロウトークをしているかまでわかるの?」Sは飲みかけたコヲンポタアジュの入るカップをソオサアから離す。自分の手元に引き寄せた。
「いかにも」
ボタンを押す。撮影が始まる。Sのショートパンツから流れ出る、パンストが映る。
「私の元カレはピロウトークで自分のまつ毛の長さについて説明する人だった」引き寄せたカップに、こう言うと、手垢付き携帯を立て掛け、今度は鼻糞を取り除いていない男性がクリイム色のソファと共に、映りこんだ。
「じゃぁおれは、どんなピロウトークをするんだ?」
「君はピロウトークをしない。いや、できない。なぜか?ピロウトークをしようとした時、すでに彼女は眠っている。それはピロウトークではない。独り言。ピロウの上で寝静まる、彼女の横で、君は仮にこう語りかける。君のおっぱいの形は、いやはやピレネー山脈とは何だったのかー」
「ちょいちょいちょい」と、声をあらげるK。
「なんだよ?」と、こちらも声をあらげるS。
「何やってんだよ馬鹿」Iは分離したコヲンポタアジュの横で、陰険な表情の男が映っていることを認知。純白の携帯を掴み、手指をひねる、スライド。Sとコヲンポタアジュ横の男が映った。
「お前、何回も同じこと言わせんなよ」
「だって人の話、全然聞いてくれないから」コヲンポタアジュ横で、男は顔を宙に上げ、目は左上の方へに向けられている。
「聞いてるって」
「聞いてるなら答えて」ここで、窓際に座る男は対面する二人の女性の目下にあった『くま』に注目した。
「何を答えればいいの?」
「ほら、聞いてないじゃん」
「今日、雪降るらしいよ」こう言うと、ポタアジュ横の男は携帯を手に取る。Sが腕を組み、前屈みになったところで、Iの手元から男の姿が消える。
「へぇ」と、I。
「お前またそうやってゲームばっかして、私とゲーム、どっちが大事なん?」シャッタア音が鳴る。
Kは「お前、朝っぱらから元気だな」と、口にすると、暖色の照明に照らされた二人の美少女が画面いっぱいに映ったことを確認し、写真フォルダに保存。
「お前、女の子にどんなこと言われたら嬉しい?」Iの純白の携帯を握る手は、目下の『くま』を隠す。Iはこの間、じっと口を閉ざしてたの。Iの携帯に、男の本体が映る。
「知らない」
「彼女ができないわけだよ」Iはシャッタア音が鳴る度に、前後に揺れるポオジングを取り、さも銃弾に打たれているかのような臨場感を出してた。
「別に欲しいなんて言ってない」
「好き。顔をうずめたくなるくらい」
「なんだよ、気持ち悪いなぁ」シャッタア音が止まる。
「冷たい言葉を使えば、冷たい言葉が返ってくるし、あたたかい言葉を使えば、あたたかい言葉がかえってくるよ」
「はいはい」 この『はいはい』のところで、ポタアジュ横にいた男の動きは停止。一瞬にして、画面から消え去った。
「この線からこっち側に入ってこないで」
「それは言われたい」
「中途半端な優しさは、もういらないの」Iは携帯を降ろす。目下の『くま』は、露わに。シャッタア音が鳴る。Iの身体はその音に反応することなく、手指をひねる。画面は閉じられた。
「なぁ、腹減ったよおれ」
「頼みなよ」Kが座っている方のソファに、お茶目な子どもか、ヤンキイにえぐり取られた跡、みたいな窪みがあって、Kは自分の携帯をそこに差し込んだ。
「あれは、絶対農学部だよ。だって作業着着てるもん」
ここで久しく唇を割らなかったIが口にした言葉は、「朝一、首から下までネッキングされたねあれは」というものだった。
「私ね」
「お前はいい目をしてる」と、K。
「大学生なんて朝一でネッキングしてくれる時間さえあればあとは何でもいいの」Iは昨日、笑いをこらえるために口内を必死で噛んだため、出来上がった口内炎(右頬の裏にある)を、舌で舐めずっていた。
「お前さんもいつかわかるよ」
「わからなくていいよ」
「待て、そういうファッションかもしれない」
「私さ」
「女の子だよ」Kがこう口にすると、Iは口内炎の舐めずりを停止。
「女の子だからこそ、ファッションかもしれない」と、I。
「私、自己愛も自己嫌悪もー」
「え、待って。よく見たらさ」対面する二人は、窓辺へ身を乗り出し、複数のうさぎが描かれた一枚の膝掛け(うさぎ達は皆、手を繋いでいる)がぱたりと落下。
「男じゃん」ここで、Sの両手は宙に浮きあがり、暖色の光が差し込む。
「はっはっはっはっはっはっはっはっはっふはっはっはっ」
ソオサア上にのるスプウンが空虚に音を鳴らす時、両の手は、机上に振り落とされたことを知る。
「うるさいよ」裸体のまま放られた消しごむがバウンド。店内に静けさが灯り、消し屑とともに、揺れる。窓辺にいた二人が謝罪の弁を述べたところで、Sは吸い殻の落ちていない灰皿を引き寄せ、人差し指を投下。くるくる回す。
「自己愛も自己嫌悪も存在しないところにいたいの。それだけ」
それはもう遠い過去のことだから、気にしないでくれ、というような印象を与えたい気持ちがすっかり裏目に出てしまったような印象を「ほらもうあんた、何食べんの?」という科白から感じ取る二人。
「ボタン、押すからね?」と、灰皿はくるくると回る。
「ちょっと待ってよ」
「ゲームスタート」と、呼び出し音が鳴る。Iは口内炎を舐めずる。

 


 

ゆうこラジオ

カアテンはあけっぱなし。部屋の中は、ちょっと湿気ているわ。部屋は全部で六畳くらい。よくは知らない。Yは左腕を大きく湾曲させ、うつ伏せ。左腕がしびれそう。目をじっと、閉じたまま。『風変わりな女』が部屋中に流れ、はじめる(エリック・サティの)。Yは、左腕の痺れ具合を確認するように、左手の平を、寝床に、押し付けていく。そのまま身体を支え、身体を反転させました。髪が枕にまとわりついてて、なんとも、踏んづけたい。それにしても、とても気持ちよさそうに寝てる。こっちまで眠れた気分。だいたい、寝顔が美しい子なんて、ちょっといないもんよね(起きてるときは、それなりに美しくってもよ)。まぁ、それでいいじゃない?寝てるときくらい、酷い顔で、居させてあげて。掛け布団の下から、足の指先がちょっぴり出てる。なまあたたかい、細い右腕が掛け布団の中から伸びてきて、枕元を無造作に、むさぐる。このときに、ラジオ体操第二の『身体を横に曲げる運動』みたいな格好になったわ。携帯に触れると、『風変わりな女』は、とまった。Yはまた、目をじっと閉じ、足の指先を掛け布団の中にしまいこんだ。掛け布団って、偉大なる発明だわ。叶うなら、掛け布団をかぶったまま、ずうっと。生きていきたいの、私。ピアノの先生が、やる気のない生徒に対してね、月謝はもらってるし、ひとまず教えている体裁はとろうと決意した後の、レッスン時間のような、ありあわせの睡眠時間から目覚めた余韻に、Yは浸っていた。部屋の時計がカチカチカチ。それと、自動車と自動二輪がアパァトの脇を通り過がる音だけが、Yの部屋に残った。ベランダには、昨夜干しっぱなしにした、下着やら何やらが。そいつらの影がどうやらね、部屋の中で躍ってるの。いき、ね。踊るシンデレラバスト。トマト柄のパンツがあるの。影じゃわからないけど。
ここで二度目の『風変わりな女』が、流れ始める。例の影たちの踊りは、ぎこちなくなった。Yは左腕(ちなみに左手首に数珠みたいなブレスレットをつけてる)を厚手の掛け布団の中から、伸ばしていく。枕元へ。それとほぼ、同時進行で身体を(下半身の方から)よじっていってね。反転するころ、右腕が、何らかの力で吸い寄せられるように、左手の近くの方によっていって、そうなったところで、Yは重心をだんだん起こしていく。髪の毛がなだれ込んでく、顔に。そこで一瞬、止まったな。と、思ったら。掛け布団が、相思相愛であったのに、その恋をあきらめ、他の女と交際することになった男のよう、Yの元を離れていったわ。二回目の『風変わりな女』は、その後止まり(今度はしっかり止まったみたい)、Yは壁に、背中からもたれかかってね、左腕で両膝を抱え込む。体育座りみたいな格好になった。なお、上下グレイのスウェットという格好。なにやら充電器を携帯からはずして、一寸いじくってから、ベッドの枕元に、放り投げちゃった。Yがスウェットのポケットに右手を突っ込むと、携帯からは人の声が流れ始めた。
『たぁーったらった。たったらら、たったら。たったらら、たったら。たったら。たらっ。今日は、二〇〇七年十二月二十七日、第三回ゆう子ラジオ始まりまーす。パオパオ。前回のラジオは...えっと、、いつだったでしょうか。二〇〇六年六月十六日。かな。あれから一年半以上たったね。ハイハイハイ。実はこれで不定期にやってるこのラジオ、三回目になります。一回目のやつは恥ずかしすぎて、さっき削除しちゃった。あはは。いきなり怒り出したと思ったら、静かになって。今度は泣き出すし、あんなもん一体どうしたかったんだか。わかりません。本当に、恥ずかしかった。まぁでも記念すべき第一回があれだったというのは、それはそれでよかったのかもしれないけど。まず一言だけ言わせて。この一年半で一番の変化。なんと、おーーーー。おっぱいがーーー。おーーーー。ちょっとおっきくなりましたぁーあははははははははは』
Yがもたれかかってる壁の真向かいに、冷蔵庫があってね。Yはおそらく、その冷蔵庫の白さを目で再確認してたんだけど。冷蔵庫は、前より汚れていないか?とか、ちょっと黄ばんでない?とか、そんなことを考えていたと思うの。だんだん目線は、足元のほうにいってね、右手の親指でトウをさすったわ。
『この前のラジオでは、四十五分間くらいしゃべり通してました。さっき聞いたんだけど、もうほんと。最後らへん、自分でも聞いてられなかった。今回は三十分くらいでまとめたいかな。できるでしょうか。そんなこと。今年も、もう終わるね。一年間どうだったでしょうか。一年半前の私には想像もできないような日常だった。まずはこう言いたい。朝、起きて、正確に言うと、お母さんがふすまを三回叩く。起・き・ろ、って、ことだよね。それで起きるんだけど。朝ごはんを食べるでしょ。あと毎日豆乳は欠かさずに飲みました。それから荷物をまとめて出発。ここまででだいたい七時。それから自転車で1時間くらいかけて予備校に行く毎日。自転車から見る朝は好きだったなー。今でも。街が動き出す感じがしたな。むくむくっと。』
Yは自分の顔の中のパアツである眉毛をね、上下左右に動かすことができるんだけど、今回は両眉を少し近づけたわ。体育座りのまま、右足の平を少し浮かせる。右手を足の平に伸ばすと、そこに貼ってあった湿布を、勢いよく剥がした。左側も同様に。一度足を浮かせると、角をめくりとり、湿った接着面に、指が触れる。柔らかな接着部の集合体は、硬く、乾燥した大地を離れる。二つの湿布の亡き殻は、空中で一度、反転した後、ゴミ箱へ。一つはうまく入ったんだけど、もう一方はゴミ箱を外れたわ。それから捲り上げてあったスウェットの両裾をおろしながら、枕元の先にある、黄緑の棚を見上げる。
『それで、気づいたら夜の九時半になってる。不思議だよ。その間の記憶ももちろんあるんだけどね。はは。で、また一時間くらいかけて家に帰る。これまた本当にいい時間。車はほとんどいなくて、街灯と街灯の間を自転車で駆け抜ける。急カーブの下り坂がありまして。ブレーキをかけずに走るのがたまらなく気持ちいいんだよね。危ないんだけど。わかっちゃいるけど、やめられません。それでだいたい帰ってから夜ご飯食べて、お風呂入って十一時半ぐらいかな。あとはお布団に到着。スヤスヤします』
左腕でうまく身体を支えながら、上の棚から(ベッドから届く距離にある)、右腕を伸ばし、爪切りを取り出す(ちょっと横着なの)。それから爪切りを左手に持ち替え、右手の指先で、枕元にあったティシュウを一枚取ってね、それを足元にさっと、広げる。右手の親指と、人差し指、それから中指を使って、爪切りを持ち、手首を内側にひねる。左足の爪を、Yは切り始めた。
『そんな毎日の中にいますね。今日はなんだか眠れなくて。ちょっと昔の携帯をいじってて、そういえば。と、思って。ボイスメモを開いてみたら、第一回と第二回のゆう子ラジオ発見。ちょっとだけなら、いいかなー。と、思ったんだけど。全部聞いちゃいました。まぁだ、あいつと付き合ってんのかなとか、弟の話とか、もう本当。おっかしかった』
Yは爪を切る時に、唇がちょっとだけ、めくれるの。なぜかしら。膝を折りたたみ、左腕に、左足が少し、もたれる。それで、だいたい左足指の付け根くらいのところを、左手で持ち上げ、膝に顎をくっつける。右手首を内側に小さくひねると、左足の爪を、親指から切ってるわ。一つの爪につき、五回くらい刃をあててる。右、左、真ん中、やや右、やや左、の順番。
『圧倒的な自信と、圧倒的な、自信の無さ。これに尽きる気がする、最近。そうでなかったら私、女なんて早く辞めてたよ。弟は元気かな?今のあいつは、だいぶ元気そうだよ。元気すぎてこの間も警察にお世話になってたからね。最近はしばらく距離を取ってる。どうやら私が構うと、さらにねじが吹っ飛んでいっちゃう感じがするんだよね、なんとなく。あぁそうそう。ねぇ、聞いて。ふと思ったんだけど、私、クラスの人気者みたいな人も好きだし、確実にあまりよく思われてない人も、好きなんだよね。これって、なんでなのかな。ただの八方美人。上っ面ってこと? それともクラスの人気者と嫌われ者には、共通してる何かがあるってこと?何年後かの私なら、その辺のこと、よくわかってるのかな。だからあんたに聞いてんの。あんたに』
最初の親指の爪を切る時は、ちょっと苦労してたけど、あとはテンポよく切り進んでる。今、左足の薬指の途中。
『はぁ。この一年、いろんな人に出会った。今の私は、別に何も成し遂げてないんだけど。ひとつ、そうだね、ひとつ。もし何年後かの私に言えることがあるとすれば、今のあなたにどんなことがあって、どうしていきたいか、そんなこと知らないけど。何を感じ、何を考えようが、時間だけは、過ぎるの。これは、幸福なことでしょ。大学には、受かったのかな。それだけはちょっと、気になります。でも私、これだけ勉強して、受からないなら、別に大学なんて行けなくていいかなぁって思う。そんなことより、もっと大切なことを私は学んだもん。はぁ。まぁなんていうかさ、本当に今言っちゃうのは生意気だと思うんだけど、、いよいよだな。って思う。この時が来たなって。やっと出れる。やっとね。大学に受かっても受からなくても。これはもう決めたことなの。長い闘いだった。靴を脱いだり、履いたりするだけで、涙が出てたな。ただ歩いてるだけで呼吸がしづらくなるし。酷い時は目をつぶって歩いたくらい』
Yは作業が右足に移るときに、爪切りを何回か細かく上下に振ったり、叩いたりして、中に入った爪をしっかり落としてた。それから、左の膝を曲げたまま横に倒し、右膝に自分の顎を置いて(なんと顎で右足のバランスをとってるってことかしら)あとは、先ほどと同様、親指から切り進めていく。
『全てがいい方向に進んだな。うん。浪人してなかったら私、今ごろ北太平洋に沈んでた。ほんとに。ちゃんと沈んでたと思うな、私なりに。元彼からもらったプレゼントとか、担任の先生からもらった手紙とかね。そういったものを、まず全部沈みそうなものの中に突っ込んで、北太平洋に放り投げる。そのあと、私も一緒にゆっくりと沈んでいく。ゆっくりね。ちょっとずつ、ちょっとずつ沈んでいって、だんだん苦しくなっていくんだけど、最後の最後で、あっ、って。ものすごく心地よい気持ちになる。そういうのが夢だった。今の私は、落ち着いてるし、納得もしてる。浪人生って、ニートじゃん。実際、そんなに違わない。違いは意識の問題でしょ。すごく居心地のいいところではあったけど。一年前の今ごろ、何やってたかな。多分ボーっとして、あとは寝てた。今日はもう寝れないかなぁ。今日をどうしよう。今日っていうか明日。なんか、なんかなぁ。このまま勉強するか。あ、本屋に行きたい。何年後かの自分よ。今日を、どうすればいいと思う』
右足中指の爪が切りとられる前に、左手首にあった数珠みたいなブレスレットが、文字通り、はじけ飛んだの。これにより、この日一日の最初にYが発した言葉は、「イッタ、」になったわ。しかしそれでも、Yは一度自分が始めたことに対する執念がすごいの。とにかく終わらせないと気が済まないのね、そこらへんに散らばった数珠玉なんかには一瞥もくれてやらない。何事もなかったよう、爪を切り進めていく。
『あぁ、映画も見たいし、ずっと本を読んでいたい気もする。でも、なんかまぁみんなそうだと思うんだけど、勉強以外のことをすると、なんか罪悪感に苛まれるというか。例えば丸一日何もしなかったとしたら、それを取り返すには、十日間かけて、一日につき、いつもより一時間くらい多く勉強しないといけないんだよね。そんなこと、たいして意味ないってわかってるんだけど。理論上ね。だからそうなるのがちょっと怖いってのもあって、ストイックになってる感じ。ずっとなんかに追っかけ回されてる感じで。朝起きたら、用意、スタート。夜、お布団に入って、やっとゴール。次の日起きたら、またスタート。その繰り返し。それでいて、なんかの尻尾をずっと掴んでるの。それが役に立つか、何の意味があるのか、実際のところわかんない。でも離さないでいたい。離したらもう一生そのままな気がするから。笑っちゃうんだけど。実際には、その掴んでる尻尾のやつが、わたしを追いかけてるやつと、同じやつなんじゃないかって気もするんだ。だとしたら、こんな滑稽なことって、ないよね』
Yは小指を切り終え、さっき放り投げた携帯を拾いあげる。一寸いじり(そしたら、二〇〇七年の十二月に一人の女性が何やら笑ってるところで音声が止んだわ)、今度は踵の側に携帯を置く。それからまた爪切りを上下に振ったり、叩いたりして、今度もしっかり、中に入った爪を落とした。それで、ティシュウを爪が落ちないように、くるっと丸める。右腕を伸ばして、ゴミ箱へ(ゴミ箱の中には『治験号出発だ』の文字)。それから部屋にある、老竹色の絨毯に、足の平を乗せる。そこに落ちてた数珠玉で足の平のつぼを刺激する。Yは灰色のスウェット、右裾を、左手でしっかりつかんで、右手をゆっくり、引き抜いていく。その右手を、スウェットの下からもぐりこませ、手がぬっ、と出る。左腕の肘付近、柔道着で言えば、左中袖付近を掴むと、紺と白のキャミソゥル(ボオダァ柄)が、Yのお腹付近から顔を覗かせた。右腕の時とは、うって変わって、左腕を力いっぱい、引っこ抜く。Yは頭を下げながら、左腕をスウェットの下から潜り込ませる。スウェットは、Yの元を離れ落ち、数珠玉は音を立てず、転がっていく。髪は、ぼっさぼさになった。


 

新しい朝

Uは台所から取ってきた、マグの取手を、左手に握る。ちなみにこのマグ、三匹のペンギンが共にサアフィンしてる絵が描いてある。愉快ね。チェイサア用で炬燵の上に置いてあった水を、マグの中へ注ぐ。それから、炬燵の横で、横たわってる物体の。顔面のそば、そいつを置いた。Uは指先が長く、ほっそりしてて、綺麗な爪の形をしてるのよ。
炬燵の中、足を崩しながら「やめときな」と、B。
「ここに水、置いとく。それから気分が悪かったら、ちゃんと言いな」
 ここで、左親指の爪を、もう一方の親指の腹で撫でつけ、Bは誰かに声をかける。
「一時間前は冷蔵庫の上で踊ってたのに」
Uは後ろで髪を束ねてたんだけど、両手でヘアゴムをはずす。ヘアゴムをズボンの前方左側のポケットへやると、「生きてます」って、言った。それから、Dさんは炬燵内の約六割のスペイスを占領して、顔を天井に向けていらっしゃった。両手を身体の後ろに置いていまして、置いていたっていうか、うまく身体のバランスを取って、いたのかしら。ヨガで言うところのダンダァサナ(杖のポォズ)に近い。最初からこう言えばよかった。ダンダァサナ(杖のポォズ)から両手をやや後方にずらした格好で、目を閉じているの。それから、目を閉じたまま「もうわかったから。はいはい、始めましょう」とおっしゃりまして、炬燵内の占領地が四割に後退。Oはさっきからずっと、口を半開きにしててね、私、口を半開きにしてる人を見ると、どうしても何かを口の中に突っ込んでやりたくなるのよ。まだやったことないんだけど。そのうちやるわ。それで、テレビのリモコンを右手の親指でいじくりながら、こう、話した。
「馬鹿は、高いところに行きたがる」
Dさんが天井の方を向いたまま、目をお開けになって、「テレビを消して。生き残ったのはこの四人。みんな。杯は持った?」と、Dさんの『どきどき物真似レパアトリイ(自称)』に入っている、巷で有名な、声がすこぶる低い喫茶店のお姉様の声で、残りの三人に呼びかけなさいました(Oは電源ボタンを押す)。Uが両手で杯を持ち、低めの声で「持ちました」って言うと、ダンダァサナ(杖のポォズ)からお帰りなさったお方が、炬燵の上にあったビィル缶を勢いよく、左手で握る。右手の人差し指と親指でプルタブをつまみ、手前に引くと、残りの輩は一斉に杯を持つ。
「前途を祝す」
腕がDさんの方へ、集まっていく。BとUはコップの底に左手を添え、右手で杯を傾けながら、杯の縁を缶の下の方にあてにいった。Oは立て膝になって、両手で杯を包み込むように持ってた。そのまま、杯を持ったBの手の甲に当たる。各々が、杯を見つめながら、自分の口元まで運んだわ。
「先輩、おつまみがもうないです」杯が音を立て炬燵机に置かれると、Uの顔を見ながら『おつまみ』の有無を指摘するB。Uは杯を握りしめてて、Dさんの方を見てる。Dさんは、もうほとんど目が開いていらっしゃらないの。でも、口だけは動かした。
「おつむがよわい?」
「もう少しで夜が明けます」と、U。Oは、ベランダの方を向いたわ。
「これで無事、みんな仕事にいけるってわけでしょ?」と、Dさんがおっしゃると、Uは杯を一口呑み下してから、「日曜日ですしね」って言ってた。四人は炬燵を、コの字型に囲ってて、台所に一番近い方には誰も。座ってないの。そこに座るためには、そのすぐ側で横たわっている物体を、少しよかさないといけないわ。Dさんは、ベランダに一番近いところに座ってて、OとBは壁側。Uはベッドの側面に、寄りかかってる。
「へーぇ。お前。格好つけてんじゃないよ」このDさんの『へーぇ』は驚きや詠嘆なんかではなくって、自分の息の臭さを確認するためのものなの。それと、Dさんはお酒が入ると、唐突な批評や、質問をすることが多いのよ。これはなんでかって、そりゃあ知らないけど。兎に角、どんな会話をしてようが、そんなことは関係ないの。
「僕ですか」お酒が入ってなければ、Dさんほど話をすり替える能力に長けている人って、なかなかいないと思うわ。授業中に、本当に授業に関係ないことしかしない、小学校五年生の男の子がいたとしてね、その子がどんな突飛な、ちょっとHな発言をしちゃったりしても、この人は必ずその言葉を拾って、そこから算数なら算数、国語なら国語で、その日の単元に結びつけていけるの。でもお酒が入ると、会話を成り立たせることには、あまり興味がなくなってしまうのよ。Dさんはこの時、目を半開きにして、ほとんど白目のまま、軽く頷いた。それからBの方を向いたわ。
「現在完了進行形の話ですか?」
口も、半開きになる。Uはその顔を一瞬、目視すると、「プレゼントパァフェクトコンティニュアス」って言った。
「そうだよ、もう。別れた?」この際Oは、焼酎を舐めずり、杯を炬燵の上に置くと、両腕を組んだ。ベッドで横になっている物体とかを見てたわ。
「今は。いや、何にしても…」
「はぁ」Dさんはお酒が入ると、溜息も出やすくなるの。なぜかしら。溜息って言っても、それは時として、言い淀みであったり、相槌でもあったりすると思うんだけど。ここで、UとBの目が合う。しばらくしてからUは「まだ続いてるんですか」って聞いたわ。
「いや」と、B。なんかよくわからないけど、たまたま目が合っちゃう時ってあるのよね。お互い、なんにも言わずに、ちょっと微笑んじゃったりするの。奇妙よね。何のアイコンタクトなのかしら?Uは、その奇妙さを回避するために口を開いたんだわ。
「三年と、四ヶ月くらいだったかな」焼酎の水割り、六対四くらいで割ったやつ(六が水ね)を、Bは呑んでるんだけど。このとき、一口呑み下すまでに、『間』を作っていたら、両腕を組んだOがBに代わり、口を開いてたのよ。
「聞いてないです」と、U。
Oは、両腕を離すと、おつまみが入ってた皿の上のかすを摘んで食べ始めた。Uは赤い、花柄のジャアジを上に着てる。荒地盗人萩、みたいなやつが描かれているの。なんでまた、こんなジャアジを作ったのかしら。きっと作った人は、よほどアイディィアに困っていたか、何か、忘れられない想い出があったのかも、しれないわ。小学生のとあるとき、荒地で鬼ごっこをしててね、ちょっと前から気になってた女の子が、その日は赤めのジャアジを着てたの。で、その子が鬼になったときに、追いかけて来たんだけど、途中でその子は転んじゃった。心配そうな顔して、そいつが近づいてしゃがんだら、女の子がそいつの足をタッチして、『踏んでるよ』って。『なんだよ』って思って見たら、この盗人萩で、女の子は、ズボンをはらう。『あなたが鬼よ』と言い残し、逃げちゃった。みたいなやつ。
「知らなかったです」Uがこう、口にしたとき、Bは炬燵布団の裂けたところ(自分の炬燵布団ではない)を、さらに引き裂こうとしてた。もうほんと、綿があふれ出そう。
「てっきり知ってるかと思ってたな」と、O。Oは足を炬燵から完全に出してる。それで、小刻みに震えてるの。
「ぇえっ」
Dさんはお酒が入ると、唐突な質問や、溜息だけでなく、感嘆の声も増えるの。全く、よくわからないんだけど、自分の好きなタイミングで感嘆の声をあげたがるのよ。正直、本当に。このことに関してのみ、多くの人がDさんの悪癖として懸念を示している。それ以外は本当に敬愛されている人なんだけど。ここではBがDさんに顔を近づけ、Dさんしか聞こえないくらいの声量で、「ちょっと、うるさいですよ」と、告げた。
「なるほど。いろいろと、繋がった気がします」
「ちょっとさ、お前。貧乏揺すりを、やめてほしい」Uが何かを言ったことは、聞こえてたと思うんだけど。そんなことより、Bは他人に注意、指示を出すことに必死なの。いつ、何時でもよ。確かに貧乏揺すりは時として本当に煩わしいのだけど。彼のような人がいないと、うまく成り立たない状況とか、多々あると思うわ。実際に彼のような人に、私は何度か本当に感謝した。こういう人って、無人島で暮らすことになっても、その島にいる鳥とかに注意したり、指示を出しちゃったりするのよね。それがまるで神々から与えられた自分の生涯における使命なんだ、くらいの気の持ちようでね。そうしてる自分のことに、恋しちゃってるんだから。それで、Oは貧乏揺すりをやめたわ。
「なんで別れたんですか」と、U。
「なんでだろうな」Bはここで、天井を見上げたり、引き裂いた炬燵布団の跡を見たりしながら間を作ってた。
「もっと強くなって、俺のことを見返してほしいんだ」
男がこう語ると、Uはしばらく本当に臭そうな顔を浮かべてた。二週間放置してた生ゴミと大量の蛆虫の臭いを嗅いだ時くらい。
それで、「まぁ難しいことなんだよ」って、Oが会話に入ってきたんだけど、この言葉は、誰にとっても、特に意味をなさなかった。こういう、いわゆる取り上げている話題の難しさを、逐一確認しながら会話を進めようとするのって、洒落てる。とでも思っているのかしら。
Uの、「そうですか」は、多分詠嘆の意味合いだった。Bは右手の人差し指を自分のこめかみに向け、「君と僕達の頭は、繋がってないだろ」って言った。この、『僕達』って、何なのかしらね。『僕達』の頭は繋がっているって、ことかな?私には理解できないわ。理解できなくていいんだけど。これが男の子たちの一体感みたいなやつなのかしら。 南無。
「何をおっしゃっているのか、よくわかりません。確実に。あなたじゃなくても幸せになれると思います」
Bの左手が杯を握り、背が壁にもたれ、右の人差し指で再度こめかみを抑えた時、左隣にいるOは前方のベッドの上、寝息をたてる女の子を一瞥。「君の同期はみんな、横たわっているね」と、口にした。一人はこの部屋に住んでる男の子で、さっきUが水を置いた方。もう一人は、女の子で、日を跨ぐ前に寝たわ。Uはこの時、ベッドの枕元にあったティシュウ箱から、左手でティシュウを一枚取り、鼻を擤むついでみたいな感じで、こう言った。
「呼吸してるんで大丈夫です」
顎をあげて、呑んでた杯を空っぽにしてから、Bは吐息を漏らす。「呼吸してても、大丈夫じゃない人もいるんだ」って、口にした。小学生同士の喧嘩に割り込んでくるヤンキィみたいな声で。ちなみにDさんはこの時、完全に目を閉じていらっしゃった。
「例えば、誰ですか?」
Bは新しい杯を作ろうと、床に置かれた一升瓶を右手で掴んだ。でもOが両手を差し出してきたから、それを受け渡すことにしたのね。その受け渡すついで、「例えば、君だよ」って、喋った。Uは表情筋を緩めることなく、鼻を擤んだティシュウを丸める。BとDさんの間にある、黄色いゴミ箱を目掛け、左手でスナップを効かし、シュウト。丸まったティシュウは、絶妙に、気だるく、弧を描いて(半回転し)、ゴミ箱の中へ、すとん。堕ちていった(ナイスシュウト)。それからOは、床に袋ごと落ちてるほとんどカスみたいな氷を左手で二つ取る。杯へ。右手で焼酎の蓋をひねる。外す。そいつを炬燵の上に置くと、臭そうな息。こう、口にした。
「ねぇ、愛を歌おうよ」
ラベルを上に、瓶底に右手を添え、左手で先端部を持ちながら、焼酎を、本当に(私には、適当としか思えないのだけど)、ものすごい速さで入れたわ。ドゥバドゥクッ。本当に一瞬だった。でもちょうど半分くらいになってたから、驚きね。
「俺たちも、居なくなる」
Bがこう言ってから、Oは蓋を閉め、自分の左側に置く。右手の人差し指で、氷をくねらせると、杯をBに渡した。
「水は?」と、男は尋ねる。
「氷を多めに入れた」と、男は答える。
「後輩は大切にしますよ」と、U。Uが目を一寸、閉じ掛けると、Dさんの目が、瞬く。玄関の方を見てた。「なんの話をしてる?」と、おっしゃりました。UはDさんのお顔を拝見することなく、瞼を閉じる。
「好きな、椅子の形について、話していました」
「そうか。そりゃあいい。ねぇ、どんな椅子が好きなの」左手で、虚ろな目をこする、U。
「バっフ」口からこう音声を発しながらUは左手で口を覆った。
「バフ?」
Dさん以外の目が開いてる男性は、揃ってUの方を見たわ。
「すみません。むせてしまって」Dさんは首を横に振り、こう語った。
「いやいや。いいんだよ。そりゃみんな、椅子の形の話となると、興奮してしまうからね」
「お風呂場の中にある椅子です」Dさんは間、髪を容れず、「はぁ」って声をあげた。これは、感嘆の声ね。
「ちょっと僕、今からやるから、どんな感じで座るの」と、O。そのまま、炬燵の横で四つん這いになった。Dさんは「いや、どんな形なのかな、それは」と、おっしゃりまして、こちらもまた、四つん這いになった。
「やめてあげてください」と、B。
Uは炬燵に手を掛け、両足の踵に力を込める。立ち上がるや否や、低めのセンタリングに合わせる要領で、Uはトウキックを繰り出した。
「ありがとう」と、わき腹を抑えるO。
Uのトウはイタチのよう、ぬっと、炬燵の中へ潜り込む。Bがお尻を踵につけ、横目で、Dさんの方を、目視。一寸顔を近づけて、「先輩、起きてください」って言ったの。Dさんは、目をつぶってる。
「今日、朝から何か、あるんですよね」と、U。
Oはここで四つん這いを辞め、こたつの横に座りなおす。体育座りみたいな格好になった。
「あるよ、それは。朝が来たらの話だけど」って、おっしゃった。目は閉じたまま。
すかさず、Bが「朝が来ます」って言ったんだけど。あんまり聞こえてなかったのかもしれないわ。「へぇ」って。それだけ、おっしゃった。Uは、Dさんが四つん這いになったことで、腰があらわになってしまった部分を目視しながら、こう言った。
「何があるんですか」
「ふふふふふ」この時Dさんは『どきどき物真似レパアトリイ』に入っている、喫茶店のすこぶる声の低いお姉様の声で言ってた。Oは、目を細めていて、Dさんの先にあるベランダの方を見やりながら、「明るくなってきたな」みたいなことを話したわ。ここのベランダの方からだと日の出は見れないんだけど。遠くの分厚い雲が、白みがかってきてた。OがUの座ってるところの、ちょうど真上あたりにある、深い緑の、掛け時計を見ながら、「おれもそろそろ出ないといけない」って口にした。それからしばし沈黙。みんな、一度はDさんのあらわになってるパンツとかを見た。
「うみは、何になるの?」と、O。再び、左手で目をこするU。
「偉くはなりたくないですね」
「うん」
「偉くはないものになりたいですね」
Bは自分のズボンのポケットから、タバコのソフトケエスを取り出すと、炬燵の上に置き、こう語りかけた。
「一つ。真剣に、アドバイスしておくけど。君はもう少し、自分がそんなに器用じゃないことを自覚した方がいい」
「先輩は授業に出た方がいいと思います」
「ご名答」
「なんで出ないんですか」
右の人差し指と、親指で、一本。タバコを取り出すと、炬燵の上で、フィルタァを下にし、炬燵机を叩き始めた。
「くだらない授業に九十分出るよりか、質の良い映画を九十分見たほうが心地よい時間が過ごせるだろ。そういうことだよ」
「映画を見てたんですか?」
「でもほら、ちゃんと卒業するから。行く時は行ってたわけだよ」
「なるほど」Oは右手をポケットに突っ込む。立ち上がると、Bの頭上を跨ぎながら「日が出てきた」って言ったわ。よっぽど、日を拝みたかったのね(光合成がしたい年頃なの)。それから、四つん這いになったまま、動かなくなったDさんの頭部を避け、床に、足を下ろしていく(ベランダの方へ)。ドアの鍵を、右の中指であげる。Bは、炬燵に叩きつけてたタバコを持ち、立ち上がった。ベランダには二つ、サンダルがあるの。ひとつは、島ぞうり。もうひとつは、灰色のスリッパみたいなやつ。元は灰色じゃなかったかもしれないわ。とっても、汚れてるから。Uは二人が揃ってベランダに出たところを確認すると、炬燵から足をのっそり出し、膝立ちに。両手でDさんの上着を引っ張った。これで、露わになってたハンケツとか、パンツとか、が、見えなくなった。Bは、ベランダに入るドアの、すぐ側に立つ。左手に持ってたタバコを、口でくわえ、ポケットからマッチ箱を取り出す。左の親指で箱を一寸押し、今度はマッチ棒をもう一方の親指と人差し指で、取り出した。右の手首を外側にくねらし、マッチ棒に、火が灯る。そいつが空中をすぅっと、浮かび上がって、タバコの、先端に触れる。煙を、口の中に溜め込んでいく。もう一度手首を、外側に素早く、くねらす。すると、マッチ棒の火が消えた。
「一本、もらっていいですか」
Oはベランダの奥、非常口って書いてあるとこの横に立ってる。今にも非常口を突き破りそうな顔をしてたわ。遠くの空を眺めながら、右手がYシャツの胸ポケットに、侵入。そこからタバコを一本取り出すと、口元に運び、右手のライタァで火をつける。一息で吸った。この間、左手はずっとポケットに突っ込んでた。
Bは左手でソフトケエスを掴み、そいつで自分の太ももあたりを、二度叩く。煙を吐きながら、身体を部屋の方へ一寸ひねる。左手を伸ばしながら、ソフトケエスを、Uに差し出す。このとき、部屋にはそれぞれ、ベッドと床で横たわる成人男女と、それから四つん這いの方がいらっしゃったわ。Uはタバコを左の小指と人差し指以外の指で一本取った。この際、影絵の『狐さん』みたいな手の形になってた。唇が、フィルタァに触れるとき、少しだけ、Oの右耳の耳たぶあたりを眺めた。Uはベランダにはギリギリ入ってなくて、裸足のまま、サッシに足の指先をのせてる。Bは煙を空に向かって吐き出し、左ポケットにソフトケエスをしまうついで、マッチ箱を取り出して、しゃがんだ。口でタバコをくわえると、UがBの方を向いて、今度は手首をひねらずに、マッチ棒を素早く赤リンにこ擦り付け、火が灯る。Uは左の親指と中指でタバコを掴みながら、火の中へ、入っていく。火元を見ながら、煙を、口の中に含んだ。Oは分厚い雲を眺める。Bがマッチ棒の火を消すと、Uの喉奥を煙が通って、Bはしばらく、Uの裸足の爪を眺めながら。しゃがみこんだままに、煙を吸ってた。それから。立ち上がって、マッチ棒が、灰皿の元へ、ぽとりと落ちる。Uは煙を吐き出しながら、二人の男の間にある分厚い雲を眺めた。Dさんは、四つん這いのまま。
「新しい朝だ」
「付き合わせて悪かった。寝坊せずにすんだよ」と、O。煙を一度吐き出してから、「気をつけな」って、Bが答えた。Uは自分が灯した火から出る、煙の行き先を、目で追ってたの。火の灯りが消えるまでね。