くだらない

くだらないです

ゆうこラジオ

カアテンはあけっぱなし。部屋の中は、ちょっと湿気ているわ。部屋は全部で六畳くらい。よくは知らない。Yは左腕を大きく湾曲させ、うつ伏せ。左腕がしびれそう。目をじっと、閉じたまま。『風変わりな女』が部屋中に流れ、はじめる(エリック・サティの)。Yは、左腕の痺れ具合を確認するように、左手の平を、寝床に、押し付けていく。そのまま身体を支え、身体を反転させました。髪が枕にまとわりついてて、なんとも、踏んづけたい。それにしても、とても気持ちよさそうに寝てる。こっちまで眠れた気分。だいたい、寝顔が美しい子なんて、ちょっといないもんよね(起きてるときは、それなりに美しくってもよ)。まぁ、それでいいじゃない?寝てるときくらい、酷い顔で、居させてあげて。掛け布団の下から、足の指先がちょっぴり出てる。なまあたたかい、細い右腕が掛け布団の中から伸びてきて、枕元を無造作に、むさぐる。このときに、ラジオ体操第二の『身体を横に曲げる運動』みたいな格好になったわ。携帯に触れると、『風変わりな女』は、とまった。Yはまた、目をじっと閉じ、足の指先を掛け布団の中にしまいこんだ。掛け布団って、偉大なる発明だわ。叶うなら、掛け布団をかぶったまま、ずうっと。生きていきたいの、私。ピアノの先生が、やる気のない生徒に対してね、月謝はもらってるし、ひとまず教えている体裁はとろうと決意した後の、レッスン時間のような、ありあわせの睡眠時間から目覚めた余韻に、Yは浸っていた。部屋の時計がカチカチカチ。それと、自動車と自動二輪がアパァトの脇を通り過がる音だけが、Yの部屋に残った。ベランダには、昨夜干しっぱなしにした、下着やら何やらが。そいつらの影がどうやらね、部屋の中で躍ってるの。いき、ね。踊るシンデレラバスト。トマト柄のパンツがあるの。影じゃわからないけど。
ここで二度目の『風変わりな女』が、流れ始める。例の影たちの踊りは、ぎこちなくなった。Yは左腕(ちなみに左手首に数珠みたいなブレスレットをつけてる)を厚手の掛け布団の中から、伸ばしていく。枕元へ。それとほぼ、同時進行で身体を(下半身の方から)よじっていってね。反転するころ、右腕が、何らかの力で吸い寄せられるように、左手の近くの方によっていって、そうなったところで、Yは重心をだんだん起こしていく。髪の毛がなだれ込んでく、顔に。そこで一瞬、止まったな。と、思ったら。掛け布団が、相思相愛であったのに、その恋をあきらめ、他の女と交際することになった男のよう、Yの元を離れていったわ。二回目の『風変わりな女』は、その後止まり(今度はしっかり止まったみたい)、Yは壁に、背中からもたれかかってね、左腕で両膝を抱え込む。体育座りみたいな格好になった。なお、上下グレイのスウェットという格好。なにやら充電器を携帯からはずして、一寸いじくってから、ベッドの枕元に、放り投げちゃった。Yがスウェットのポケットに右手を突っ込むと、携帯からは人の声が流れ始めた。
『たぁーったらった。たったらら、たったら。たったらら、たったら。たったら。たらっ。今日は、二〇〇七年十二月二十七日、第三回ゆう子ラジオ始まりまーす。パオパオ。前回のラジオは...えっと、、いつだったでしょうか。二〇〇六年六月十六日。かな。あれから一年半以上たったね。ハイハイハイ。実はこれで不定期にやってるこのラジオ、三回目になります。一回目のやつは恥ずかしすぎて、さっき削除しちゃった。あはは。いきなり怒り出したと思ったら、静かになって。今度は泣き出すし、あんなもん一体どうしたかったんだか。わかりません。本当に、恥ずかしかった。まぁでも記念すべき第一回があれだったというのは、それはそれでよかったのかもしれないけど。まず一言だけ言わせて。この一年半で一番の変化。なんと、おーーーー。おっぱいがーーー。おーーーー。ちょっとおっきくなりましたぁーあははははははははは』
Yがもたれかかってる壁の真向かいに、冷蔵庫があってね。Yはおそらく、その冷蔵庫の白さを目で再確認してたんだけど。冷蔵庫は、前より汚れていないか?とか、ちょっと黄ばんでない?とか、そんなことを考えていたと思うの。だんだん目線は、足元のほうにいってね、右手の親指でトウをさすったわ。
『この前のラジオでは、四十五分間くらいしゃべり通してました。さっき聞いたんだけど、もうほんと。最後らへん、自分でも聞いてられなかった。今回は三十分くらいでまとめたいかな。できるでしょうか。そんなこと。今年も、もう終わるね。一年間どうだったでしょうか。一年半前の私には想像もできないような日常だった。まずはこう言いたい。朝、起きて、正確に言うと、お母さんがふすまを三回叩く。起・き・ろ、って、ことだよね。それで起きるんだけど。朝ごはんを食べるでしょ。あと毎日豆乳は欠かさずに飲みました。それから荷物をまとめて出発。ここまででだいたい七時。それから自転車で1時間くらいかけて予備校に行く毎日。自転車から見る朝は好きだったなー。今でも。街が動き出す感じがしたな。むくむくっと。』
Yは自分の顔の中のパアツである眉毛をね、上下左右に動かすことができるんだけど、今回は両眉を少し近づけたわ。体育座りのまま、右足の平を少し浮かせる。右手を足の平に伸ばすと、そこに貼ってあった湿布を、勢いよく剥がした。左側も同様に。一度足を浮かせると、角をめくりとり、湿った接着面に、指が触れる。柔らかな接着部の集合体は、硬く、乾燥した大地を離れる。二つの湿布の亡き殻は、空中で一度、反転した後、ゴミ箱へ。一つはうまく入ったんだけど、もう一方はゴミ箱を外れたわ。それから捲り上げてあったスウェットの両裾をおろしながら、枕元の先にある、黄緑の棚を見上げる。
『それで、気づいたら夜の九時半になってる。不思議だよ。その間の記憶ももちろんあるんだけどね。はは。で、また一時間くらいかけて家に帰る。これまた本当にいい時間。車はほとんどいなくて、街灯と街灯の間を自転車で駆け抜ける。急カーブの下り坂がありまして。ブレーキをかけずに走るのがたまらなく気持ちいいんだよね。危ないんだけど。わかっちゃいるけど、やめられません。それでだいたい帰ってから夜ご飯食べて、お風呂入って十一時半ぐらいかな。あとはお布団に到着。スヤスヤします』
左腕でうまく身体を支えながら、上の棚から(ベッドから届く距離にある)、右腕を伸ばし、爪切りを取り出す(ちょっと横着なの)。それから爪切りを左手に持ち替え、右手の指先で、枕元にあったティシュウを一枚取ってね、それを足元にさっと、広げる。右手の親指と、人差し指、それから中指を使って、爪切りを持ち、手首を内側にひねる。左足の爪を、Yは切り始めた。
『そんな毎日の中にいますね。今日はなんだか眠れなくて。ちょっと昔の携帯をいじってて、そういえば。と、思って。ボイスメモを開いてみたら、第一回と第二回のゆう子ラジオ発見。ちょっとだけなら、いいかなー。と、思ったんだけど。全部聞いちゃいました。まぁだ、あいつと付き合ってんのかなとか、弟の話とか、もう本当。おっかしかった』
Yは爪を切る時に、唇がちょっとだけ、めくれるの。なぜかしら。膝を折りたたみ、左腕に、左足が少し、もたれる。それで、だいたい左足指の付け根くらいのところを、左手で持ち上げ、膝に顎をくっつける。右手首を内側に小さくひねると、左足の爪を、親指から切ってるわ。一つの爪につき、五回くらい刃をあててる。右、左、真ん中、やや右、やや左、の順番。
『圧倒的な自信と、圧倒的な、自信の無さ。これに尽きる気がする、最近。そうでなかったら私、女なんて早く辞めてたよ。弟は元気かな?今のあいつは、だいぶ元気そうだよ。元気すぎてこの間も警察にお世話になってたからね。最近はしばらく距離を取ってる。どうやら私が構うと、さらにねじが吹っ飛んでいっちゃう感じがするんだよね、なんとなく。あぁそうそう。ねぇ、聞いて。ふと思ったんだけど、私、クラスの人気者みたいな人も好きだし、確実にあまりよく思われてない人も、好きなんだよね。これって、なんでなのかな。ただの八方美人。上っ面ってこと? それともクラスの人気者と嫌われ者には、共通してる何かがあるってこと?何年後かの私なら、その辺のこと、よくわかってるのかな。だからあんたに聞いてんの。あんたに』
最初の親指の爪を切る時は、ちょっと苦労してたけど、あとはテンポよく切り進んでる。今、左足の薬指の途中。
『はぁ。この一年、いろんな人に出会った。今の私は、別に何も成し遂げてないんだけど。ひとつ、そうだね、ひとつ。もし何年後かの私に言えることがあるとすれば、今のあなたにどんなことがあって、どうしていきたいか、そんなこと知らないけど。何を感じ、何を考えようが、時間だけは、過ぎるの。これは、幸福なことでしょ。大学には、受かったのかな。それだけはちょっと、気になります。でも私、これだけ勉強して、受からないなら、別に大学なんて行けなくていいかなぁって思う。そんなことより、もっと大切なことを私は学んだもん。はぁ。まぁなんていうかさ、本当に今言っちゃうのは生意気だと思うんだけど、、いよいよだな。って思う。この時が来たなって。やっと出れる。やっとね。大学に受かっても受からなくても。これはもう決めたことなの。長い闘いだった。靴を脱いだり、履いたりするだけで、涙が出てたな。ただ歩いてるだけで呼吸がしづらくなるし。酷い時は目をつぶって歩いたくらい』
Yは作業が右足に移るときに、爪切りを何回か細かく上下に振ったり、叩いたりして、中に入った爪をしっかり落としてた。それから、左の膝を曲げたまま横に倒し、右膝に自分の顎を置いて(なんと顎で右足のバランスをとってるってことかしら)あとは、先ほどと同様、親指から切り進めていく。
『全てがいい方向に進んだな。うん。浪人してなかったら私、今ごろ北太平洋に沈んでた。ほんとに。ちゃんと沈んでたと思うな、私なりに。元彼からもらったプレゼントとか、担任の先生からもらった手紙とかね。そういったものを、まず全部沈みそうなものの中に突っ込んで、北太平洋に放り投げる。そのあと、私も一緒にゆっくりと沈んでいく。ゆっくりね。ちょっとずつ、ちょっとずつ沈んでいって、だんだん苦しくなっていくんだけど、最後の最後で、あっ、って。ものすごく心地よい気持ちになる。そういうのが夢だった。今の私は、落ち着いてるし、納得もしてる。浪人生って、ニートじゃん。実際、そんなに違わない。違いは意識の問題でしょ。すごく居心地のいいところではあったけど。一年前の今ごろ、何やってたかな。多分ボーっとして、あとは寝てた。今日はもう寝れないかなぁ。今日をどうしよう。今日っていうか明日。なんか、なんかなぁ。このまま勉強するか。あ、本屋に行きたい。何年後かの自分よ。今日を、どうすればいいと思う』
右足中指の爪が切りとられる前に、左手首にあった数珠みたいなブレスレットが、文字通り、はじけ飛んだの。これにより、この日一日の最初にYが発した言葉は、「イッタ、」になったわ。しかしそれでも、Yは一度自分が始めたことに対する執念がすごいの。とにかく終わらせないと気が済まないのね、そこらへんに散らばった数珠玉なんかには一瞥もくれてやらない。何事もなかったよう、爪を切り進めていく。
『あぁ、映画も見たいし、ずっと本を読んでいたい気もする。でも、なんかまぁみんなそうだと思うんだけど、勉強以外のことをすると、なんか罪悪感に苛まれるというか。例えば丸一日何もしなかったとしたら、それを取り返すには、十日間かけて、一日につき、いつもより一時間くらい多く勉強しないといけないんだよね。そんなこと、たいして意味ないってわかってるんだけど。理論上ね。だからそうなるのがちょっと怖いってのもあって、ストイックになってる感じ。ずっとなんかに追っかけ回されてる感じで。朝起きたら、用意、スタート。夜、お布団に入って、やっとゴール。次の日起きたら、またスタート。その繰り返し。それでいて、なんかの尻尾をずっと掴んでるの。それが役に立つか、何の意味があるのか、実際のところわかんない。でも離さないでいたい。離したらもう一生そのままな気がするから。笑っちゃうんだけど。実際には、その掴んでる尻尾のやつが、わたしを追いかけてるやつと、同じやつなんじゃないかって気もするんだ。だとしたら、こんな滑稽なことって、ないよね』
Yは小指を切り終え、さっき放り投げた携帯を拾いあげる。一寸いじり(そしたら、二〇〇七年の十二月に一人の女性が何やら笑ってるところで音声が止んだわ)、今度は踵の側に携帯を置く。それからまた爪切りを上下に振ったり、叩いたりして、今度もしっかり、中に入った爪を落とした。それで、ティシュウを爪が落ちないように、くるっと丸める。右腕を伸ばして、ゴミ箱へ(ゴミ箱の中には『治験号出発だ』の文字)。それから部屋にある、老竹色の絨毯に、足の平を乗せる。そこに落ちてた数珠玉で足の平のつぼを刺激する。Yは灰色のスウェット、右裾を、左手でしっかりつかんで、右手をゆっくり、引き抜いていく。その右手を、スウェットの下からもぐりこませ、手がぬっ、と出る。左腕の肘付近、柔道着で言えば、左中袖付近を掴むと、紺と白のキャミソゥル(ボオダァ柄)が、Yのお腹付近から顔を覗かせた。右腕の時とは、うって変わって、左腕を力いっぱい、引っこ抜く。Yは頭を下げながら、左腕をスウェットの下から潜り込ませる。スウェットは、Yの元を離れ落ち、数珠玉は音を立てず、転がっていく。髪は、ぼっさぼさになった。