くだらない

くだらないです

ペダル

「それでね、今は、自分のことがミックスベジタブルのニンジンか鼻糞くらいに…」
「悪いけど、今は。頭の痛さが全体の感想を上回ってる」Hは路側帯、Aは歩道にそれぞれいたの。この時、周りにはHとAを除き一人の人間も、いなかった。
「ねぇ私、あるいてる?」Aはこう言うと、顔を赤らめ、視線を落とす。路側帯にいる方は自転車のサドルが異様に高い。もうほんと、限界の高さまで(というか限界の高さを超え)サドルをあげてる。だからか、Hは自転車に乗ってるときは、すごく姿勢が良く見えるの。普段から姿勢は、まぁ悪くはないんだけど。それと、この子はお日様が出てる日はこの上なくまぶしそうな顔をしてる。多少、雲が覆っててもね。目が殆ど、開かないの。極め付けは、『なんだここ、太陽しかねぇよ?』って、科白。デイトの度に、こいつを聞かされた数々の男達は、みんな揃って、気分を悪くしたわ。Hは左足をかかとから降ろし、右脚を折りたたむ。自転車を左側に傾け右脚をゆっくりと、地面につける。右脚を一蹴。あたりにスタンドをおろした音が響いたわ。それから両手にはめてた藍色の手袋を外して、自転車のカゴへ。Aは右手でブレエキを強く握り、自転車は跨いだまま、両手を降ろす。Hのまあるい背中に目を止めた。Hは耳をすませる。瞼を閉じると、口元が少し開き、一瞬、微笑を浮かべる。口笛を吹き始めたの。Hから見て、左手に病院があって、右手に、唐揚げ屋さんがある。あまり知られてないけど、ここの唐揚げ屋さんはおいしいわ。前方から自転車に乗った男子高校生が二人。
『ソラミーーーー   』
『ソラレーーーー   』
テンポ七十、四分の四拍子でこの旋律は進行し(Hはこの四分の四の四泊目の裏に、正確に息継ぎをすることを忘れなかった)この四分の四の二泊目の表がレとミの違いというだけの二種類の旋律を十五回は繰り返し吹いたところで、やめてくれたわ。この十五回のうちに、Aが自転車を降りながら対向車線を通る車の数を数えたり、携帯カイロを上下に振ったり、二人の高校生が自転車に乗りながら犬のような顔をHに向けて通り過ぎたりしたんだけど、Hはそんなこと、知らない。手指が震えだしていたの。目をじっと閉じたまま。目を開けて、自分の黄色い自転車の方を見ると、無声音で「シ・ネ」と、発声した。Hはよく、自分の中で考えが行き詰まってたり、気分があまりにも高揚してたりすると、とにかくまず自分自身を落ち着かせるために、この『言葉のおくすり』を反射的に使うの。少なからず効果を感じているらしいわ。素敵ね。それから右手で紺のコオトの左袖をつかむ。そこから左手を引きずり出し、右肩辺りに持ってくる、つかむ。地面の方に引きずり降ろし、コオトをとると、左手から右手へわたる。ここで力を込め、そのまま自転車のかごの中へ。文字通り、突っ込んだわ。
「行くよ」右手でサドルを支え、左手で左側のハンドルをつかむと、スタンドを右足後ろ蹴り一発。渾身の力で、蹴りあげた。甲高い音が辺りに響く。それから、そのまま自転車を引きながら、一歩一歩、コンクリィトの硬さを随時確認するように、歩き出す。Aも、これに習う。雲雲は、ほんの少しの隙間も作らずに、身を寄せ合っていたわ。あたりには遠くから来るカラスの鳴き声と、Hがたまに鼻汁をすする音で満ちた。信号。
「ほら、ちょうど赤になった」信号で立ち止まる。Hは左手の平手打ち一発で垂れかけた鼻汁を道路脇に飛ばした。すかさず、ポケットティシュウを取り出すA。前方に、同じく信号待ちをしている男が一人。自転車に乗ってる。しかし彼は信号を待っている間、地に足をつけたくないのか、ゆっくりと旋回していたの。せわしない男ね。Hは男の方を少し見てから。自転車のかごを漁り始める。それから、小学三年生くらいの男の子がHの近くに寄ってきた。きったないランドセルを背負ってて、校帽を首から下げてる(なお、校帽のゴムが伸びきってるわ)。Hは自転車のかごをあさる。手袋とコオトしか入ってないんだけど。次の瞬間、その男の子も旋回を始めた。男が左回りなのに対し、その子も左回り。ちょうど、公道が磁場を形成しているかのような格好になった。しかし、その男の子は速いわ。テニスのクロスオゥバァステップのような動きを織り混ぜながら、旋回してるのよ。ちなみにその男の子は旋回している間、前方の男から目を離さない。校帽が、左右に、ゆれる。信号が、青になりました。HはAからポケットティシュウを一枚取ると、自転車を引きながら走り出した。危険ね。男がHを避けるように横断を始めた時、ランドセルの少年は、満足そうに校帽を自分の頭にかぶせ、ゴムを咀嚼。Aは小走りの後、自転車に勢いよく飛び乗ると、ペダルを漕ぎ始めた。
「あのさ」男、通り過ぎる。Hは横断歩道を渡ると左に曲がって、夢中で走ってた。視線を落したままよ。Hは小学生の時にね、好きな男の子から走り方を馬鹿にされたの。そのときから自分の走り方に対して、ある種のコンプレックスをもっていたんだけど。
「あのさぁ?」でもこのときはそんなこともお構いなし。勇往邁進。さぁ、道を開けて。それでは始めるわ。これが世間をあっ、と言わせた、私のフォゥムなの!と、いわんばかりに、その右肩と左肩を交互に揺らしつつ、前のめりに直進する彼女独特の走法を、ご披露した(自転車を引きながら)。市電が、クラクションを鳴らす。Hの髪の長さは肩にかからないくらいで、横は毛先を口元に持っていけばちょうど咥えられるくらいなの。前髪がなびいて、綺麗なおでこが出てるわ。市電って、毎日事故りそうになってるの。実際事故になることもあると思うわ。車のマナァが悪かったりも、あると思うんだけど。でも、見てて嫌な気持ちはしないのよ。夜中に線路の上で寝てる酔っ払いとか、たまに線路上を走る珍走団とか、そういうのも含めて。この街に残ってほしいもの、No. 1ね。市電沿いを走るH。右手で掴んだティシュウが、風でなびいてる。素晴らしい疾走感だわ、とでも言いたげね。歯を食い縛る。この歯を食い縛った時に、Hは左側の顎に痛みを感じたわ。実はこの子、顎関節症なのよ。そしてなぜか自分が顎関節症であることを誇りに思ってるの。
「なにぃ?」と、H。市電に抜かれる顎関節症の女の子。市電が街を駆ける音に、負けないくらいの声を出してた。なおも、右肩と左肩を揺らしつつ、前傾姿勢で走るフォゥムを継続していたわ。
「どこまで走るの」手をほとんどふらない。まぁ、自転車を引いてるからでもあるんだけど。自転車を引いてなくてもそうなのよ。その分、肩でバランスをとってるの、彼女。多分。見渡す限り、雲は空を覆ったわ。不思議。Hはほとんど、地面の二メイトル先くらいまでしか見てないのに、誰ともぶつからないの。まぁ正確に言うと、誰もが彼女を避けて歩いてるからなんだけど。愉快ね。Hは勢いよく、右にまがる。街も人も、全てハリボテ。ただ、二人の少女だけが、この世界を駆け抜けているように見えた。掃き溜めに鶴。遠くの方で、何かを叩く音が聞こえるわ。お布団かしら?いや、もっと甲高い音ね。
「なに?」Hは前傾姿勢をやめ、少しずつスピィドを落とす。立ち止まりました。自転車のスタンドをおろして、路側帯の中に止めると、両手を、ズボンの太もも裏付近ではたいた。それから、左足から順に足を折りたたんで、その場にしゃがみこむ。身体中から汗が滲み出てた。
「あたしさ」Aは両手でブレエキを、やさしくかける。サドルから降りた。口から白い煙を絶えず漏らし続ける、H。Hはネコをなでる仕草を見せた。
「ミャァァァァゥ」この子は、猫の鳴き真似をする時に、いつも左側の鼻の穴が大きく開いちゃうのよ。すっごく不細工な顔になるの。私が猫だったら絶対近づかないわ。普通にしてれば、それなりに可愛らしいんだけど。
「大学辞めるんだよね」Hはすぐ野良猫を見かけると名前をつけたがるの。でもね、ここらへんの野良猫の半数以上には名前をつけたはずなんだけど、Hはほとんど忘れてる。だから、同じ猫に二つ三つ名前がついちゃうこともあるわ。Hがちゃんと覚えてるのは、『朝倉(アメリカンショートヘアらしきもの)』、『ボルデスハム(キムリックっぽい奴)』、『モンテスキュウ(ジャパニーズボブテイルらしき奴)』『三学期(ブリティッシュショートヘア)』、『ゴリラ(ボンベイ)』の5匹だけ。実際、野良猫じゃないかもしれないんだけど。
「なんて?」Hは左足に重心をかけて、ゆっくりと立ち上がると、こう言ってた。その際、Hは肩をぶるっと震わせたの。車のライトが点滅しながら、2人の横を過ぎる。
誰かが車の扉を閉める音が聞こえたわ。それから、何か、重たいものが、コンクリートの上で引きずられる音。前から、中型犬くらいの犬を散歩させてるおじさま。黄色い服に、灰色の防弾チョッキみたいなのを合わせて着てる。お洒落ね。
「もう辞めるの、全部。誰も、私のことを知らない所に行く」
Hは自転車に手をかけて、スタンドをゆっくり蹴りあげる。それから、犬がHの方に気づくと、すごい勢いで吠え始めた。するとおじさまが「キクコっ」って言ったわ。それで、両手で思いっきりリィドを引っ張ったりしてるの。犬はひゃあひゃあ言ってる。Hは犬の方を避けながら、とっても小さな声で「そうか」って囁いて、おじさまに優しく微笑みかけた。
Hは前を向いて、自転車を押しながら進む。Aが、これに続く。この際、道路を挟んで反対側に、織部色のスウェタアを着た女の子が歩いてた。紺色のスカァトを履いてる。二人と同じ方向に歩いてて、ちょうど同じくらいの歩幅だからか、並走してるような形になったわ。顔までは見えないけど。Hは大きく息を吸って、二度、くしゃみした。自転車のカゴに向かって、吐きすてるみたいに。足をほとんど地面から浮かさずに、歩いてる。前方から男の子。
「楽しかった?今まで」Hはこの男の子を、知ってるのか、じっと見てた。男の子の方も、Hをじっと見てたんだけど、距離が相手の顔がはっきり見えるくらいに縮まると、男の子が先に視線を落とす。
「うん」Hは視線を道路の方に向ける。何てこともないわ、お互いに、知らない人だったの。お互いに、お互いの知り合いに、似ていたため、顔をお互いにうかがってしまったんだけど、どうやらお互いに、思ってた人と違うことを知り、急に何もなかったことにする。どうでもいいんだけど、こういう、人間が『急に何もなかった感じ』に振る舞うのって、なんかぶさかわいいなって思うの。昔はこういうの、気持ち悪い。と思ってたんだけど。最近、違うなって。不細工よね。それでいて、かわいい。
「そう」Hは視線を道路の方に向けた時に、反対側にいる女の子の存在に気づいたの。どうやら同じくらいの歩幅であることも。信号が点滅。ここでHは先に渡るも、Aは横断歩道前で止まる。対面の信号が青になった時、二人は同時に渡り出し、ここでAは叫んだ。
「だらしない格好して、だらしない男を捕まえ、だらしない恋愛をする、あんたでいてね」へんなところに車が止まっちゃってるの。信号が黄色になったところでアクセルを踏み込んだくせに、渡れなかったパターンね。Hは横断歩道を渡りながら、その車のナンバァプレイトの方を見てたわ。本当に。渡り切るまで見てた。
「だらしない服着て、だらしない女と歩いて、だらしない話をする、あんたでいてね」と、Hも叫ぶ。歩きながら。Aがいる方の道路脇に、公園があるの。一人の女の子と、そのお母様が、ブランコに乗ってる。でも漕いでは、ないわ。Hは目をほとんど動かさない。どこか、じっと前の方だけ見てる。ゾンビみたいに。Aは後ろを振り向くと、再度、叫び声をあげる。
「思慮深いようで、自分の世界観に酔っちゃってるだけ。頭デッカチャン!?たまに結局、本当にちんぷんかんぷんなことをしてしまう、人間味のある、あんたでいてね」この、Aが『デッカチャン!?』と、言い放ったところで、Hは瞬きをした。実は、ちょっとくさいのよ、この辺。なんかの植物の臭いなんだろうけど。私なんかは、ここを通るときはいつも息を止めるわ。軽くね。駐停車禁止区域の標識のすぐ前に車が停めてある。Hは自転車のハンドルを右に向けながら、そいつをちゃんと避けてた。どこに目がついてたら、こんな所に、お車をお停めになられるのかしら。それから、今度は左にハンドルを向け、Hは叫び声を上げた。
「なんかを批判することでしか、自分をうまく紹介できないし、曖昧なものは曖昧なままでいいとか言うくせ、結局曖昧じゃない状態を選ぶし、たまに爆音で悲しい音楽を聴く、中途半端に悪人ぶってる、あんたでいてね」
後ろから前のめりになってる自転車のおっさんが、Aを追い越す。そいつはどうやら、タバコを咥えながらペダルを漕いでて、吐いた煙がAの顔に到達。飛散。Hは自転車を、自分の方に寄せ、右足のトウを、地面に対し、平行に、突き出す。そのままサドルを跨ぎ、右側のペダルに踵をのせる。反対側のトウは、地面を突いた。