くだらない

くだらないです

不健康な他人

ぱきぱき音を立てて、たまに空気中に、灰が吹き飛んでく。まだ燃え尽きぬ薪の欠片も、ぽつりと落ちて、仲直り。室内は木材の湿った香りに、はるばるエチオピアから来たコオヒイ豆の香りやら、クミン、カルダモン、フェネグリィク辺りの、スパイスが煮詰まった香りやらが、一切合切、混ざり込んでる。Yは、窓際にある席の中では、入り口から最も近い席に腰を下ろし、なおもEは、マフラアを両手とお腹の間に挟んで、おさえこんでる。机に対し、四つの椅子があり、Yは荷物を自分から見て左側に置き、コオトも左側の椅子にかけた。EはYが荷物を置いた方の向かいの椅子に座ったから、ちょうどお互いが、向かい合わないような配置になった。
「まず、マフラーを置こうか」
「暖かい?」
「ここは、暖かいよ」
Eがマフラアを机の上に置くと、ちょうど水とメニュウ表が運ばれてきたの。Yは水を二つ受け取って、机に置いてから、左手でマフラアを自分の椅子の荷物の上に載せ換えた。それからメニュウ表も机の上に置かれて、細身のおばさまは、すぐいなくなったわ。
「手を置いて。お願い、膝の上に。メニューが見えないから。今は、何か、話ができそう?」
「言葉が、出てこない」と、E。ここで、Yは運ばれてきたコップに唇をつけると、メニュウ表を自分に見えるよう、回す。
「安心して。よくわからないけど。とりあえず、私にはあなたの言葉が聞こえる。別に、無理しなくていいから。うまく話そうとしないで。ゆっくり」
Yは、運ばれてきたコップの側面を左手の指先でいじくりはじめて、「何か食べる?」って聞いたわ。首を横に振るE、店員に手を振るY。恰幅のいいおじさまが、遠くから近づいてきた。
「すみません。カレーを一つ。それから、紅茶をホットで。あ、ミルクでお願いします」
「ランチのカレーと、ホットの紅茶、御一つずつで、よろしいですか?」Yの左手が、コップから離れる。
「紅茶はミルクで」
ここで、恰幅のいいおじさまは、かるくお辞儀して、「かしこまりました」って、言ったわ。一方Yは、対面する相手に、わりと必死な印象を与えてしまう程度の、前歯をちらりと見せる、独特な微笑を浮かべる。小さく頷いた。恰幅のいいおじさまが去ると、Yは右手中指と人差し指を使い、前髪の位置を整えた。
「昨日の夜は?」
「さんぽ」Eは両手でお腹をおさえ、Yは左人差し指の爪で、コップをつつく。
「へぇ、どこに行ったの?」自分の手元にある、コップの水面を見つめるE。
「私の名前は?」
「しっぷ」
「残念。でも惜しかった。あと二回チャンスをあげよう」YはEに向けて、右手の人差し指と中指を立てた。
「どうろ…しっぷ」
「正解。道路脇に落ちている湿布よ。よくできました。水を飲んでごらん、ちょっと楽になるかも」Yはこう言うと、Eの右手を掴み、Eの手元にあったコップを無理やり、手で握らせた。Eはただ、コップに入ってる水の揺れを感じていたわ。それから、YはEの右手をコップごと、左手で掴み、口元まで運ぶ。Eは上下の唇で、コップの端をつまむと、ガラス表面の冷たさを確認。そのまま、唇から離した。
「しっぷさん」
「何?」
「今日のおれ、すごい臭いよ」
「いつもよ」コップを机の上におろすY。コップとEの手から、Yの左手が離れる。そのまま手を、机の上に置いたわ。楽譜をめくった後、再度ピアノの鍵盤にのせるみたいに。
「不健康な他人、覚えてる?」
「おぼえてます」
「よく集まったよね。多いときはちゃんと六人いたかな。毎週毎週。誰か誕生日が近い人がいたら、必ず顔面に何かを投げつけてた。私はよく投げつけ役をやったな。投げつけられたこともあったけど。あれ、何が厄介って、モノによっては髪につくでしょ。私、なんだったっけ?思い出せないくらいだからー」
「歯みがきこ」
「あぁそうそう。よく覚えてるじゃん。歯みがき粉だった。もうすっごいスースーした。何が愉しくって、誕生日にスースーしないといけないの。お陰で髪がいつにも増していい匂いだったけど。はぁ。懐かしい。そもそもなんで集まり出したんだっけ?よく覚えてないな。今考えたら、よくわからないことだらけ」Eは右手でずっと、コップを握り締めてる。
「りゅう先輩」
「りゅうさんいた。いたよ。あと冷え性さん」
冷え性さん」Yは眉を上に上げながら「うん」って言ったわ。この眉を上に上げる動作によって、Yは自分の同意加減を相手に強調したかったんだろうけど、それにしてもこういうことをする度に不思議なほど不自然な印象を相手に与えてしまう子なの。
「会いたいですね」Eは殆ど、瞬きをしない。それでいて、空気中の埃かなんかをずっと見てるようなの。二人は窓際の席に座ってて、ここは二階なんだけど、ちょうど屋根付きの小さなバルコニイがある。そこから太陽の光が差してて(お空はそんなに晴れてないんだけど)、その光の差してるところに、空気中の小さな塵埃が、映し出されてた。
「そうなんだ。今はどこにいるのかな。会えばいいのに」Yはさっきから背中をさすってる。ちなみに、りゅうさんと冷え性さんは『不健康な他人』を、作った二人で、主要な人物だったの。りゅうさんはベイスパァト。冷え性さんは『不健康な他人』のほぼ全ての曲を作った人で、ギタァだった。どっちとももう卒業して大学にはいない。それから、Yと同学年のやつが一人。楽器が弾けないメガネ太っちょで、一応、ヴォオカルみたいなことをしてた。今はバックパックで、どっかに飛んでっちゃった。それから、Eと同学年のやつが一人。女の子で、ドラムを叩いてたわ。今は別のバンドを組んでるの。大学中の不幸なやつらをかき集めて、傷の舐め合いをしてたのよ。塵埃が集まって、身を寄せるところがあるでしょ。そんなところだったの。最初はバンドを組んでちゃんと音楽をするはずだったんだけどね。YとEはこの『不健康な他人』で知り合った先輩と後輩なの(Yはキィボォド、Eはギタァ)。
「あの人は、ファンタジスタだった」
「そう?」
「うん」
「それはよかった。よくわからないけど」店の中は、ログハウスみたいな作り。真ん中に、ハンモックみたいなのがあって、みたいなのっていうか、完全にハンモックなんだけど。そこに、雑誌類が積まれてるのよ。
「僕は女の子に生まれて」
「うん」ハンモックに雑誌を置くなんて、ちょっと勿体無い気もするんだけど、そこしか置き場所がないのかもしれないわ。雑誌達も、心なしか、寝心地が良さそう。それから、ところどころ湿気かなんかで、壁が剥がれかけていたわ。
「おじさんになりたかった」
「ふぅーん」Yはコップについた結露を左手の人差し指で落とし始める。
「それ、前にも言ってたね。ちょっとだけHな女の子でしょ。今のところおじさんにはなれそうだよ」Bill Evansの、『Darn That Dream』が流れる。
「女の子に生まれて、おじさんになりたかったんですよ」
「二つともは、難しいね」Yはよく引き攣った笑顔を会話の中でする癖があってね。ほっぺたが痙攣してるみたいな。この時も、それをした。これはおそらく、相手に自分の自然体な様子を見せようとしてのことだと思うんだけど、あきらかに酷いの。本人はどうやら気づいてなくってね。誰かがちゃんと教えてくれないと、一生このままだわ。
「二つともとか、そういうことじゃないんですよ」 Yは指二本分の結露を、ゆっくりと、落とす。
「私がこのまま成長して、おじさんになったら、どう?羨ましい?」
「いや」Eはこの店に入ってから初めて、Yの美貌を、少しだけ拝見した。それまではほとんど、陽光に照らされた空気中の埃を目で追ってる感じだったんだど。
「あんたは気持ち悪い」
Yは身体をよじり、左人差し指の腹をコップを動かさない程度に、軽く、押し付ける。それからそっと、底の方まで、降ろしていく。
「失礼ね。それじゃあー」
「日記はまだ書いてるんですか?あの変態日記」
「変態日記じゃありません。家計簿ね。私にとっては、あれはそれなりに、ちゃんとした、家計簿だったの。もう書いてないけど。いつごろだっけな。ちょうど、不健康な他人で集まらなくなってからすぐだったかも。うん」
「惜しいですね。あれはー」
「なに」
「そうそうお目にかかれない」Yは少しだけ腰を浮かせて、左手で椅子を後ろにさげたわ。この時、ちょっとバルコニィの方を見てた。それからまた、左人差し指で、結露を落とす作業が再開。
「誰の字が汚いって?お前の字も他人のこと言えないよ」
「そういうことじゃない」Eはコップを、窓から遠いほうへ、左手で動かした。
「あなたは、他人の親切心を煽る癖があります」
「ご指摘ありがとう。不覚にも。新しい自己紹介か、何かかと思ったけど」
「どういたしまして」窓際の列、二人が座ってるところの、一つ隣に、老夫婦と、おそらく、そのお孫さんかしら?小さくて、かわいい坊や。一歳から二歳の間くらいだと思う。あとは、そのお母さんが座ってたわ。
冷え性さんみたいな人は、ちょっといないですよ」Eは、Yの顎あたりに目を留める。
「あの人は、安易じゃなかった」
「ほぉ。安易かどうかは、知らないけど」
「ぼくはあの人の影を、ずっと追ってる気がするんですよ」Yのコップについた結露を落とす作業は、一段落したみたい。机の上にあった左手を、左膝へ置いた。
「ふむ」
「あれからずっと。ただ、思い出に浸って、足跡を辿っていく、作業になってる」
「それが、いやなの?」
「いや。ただそう思ってるだけです」
「ふぅん」YはEが着てる深い緑のパアカアに書いてある、英単語に見とれていたの(ちなみに黒字で『TERRITORIES』って、書いてある)。
「今はそう思う、ってだけかもしれませんね」
「あなたが今、そう思う。ということはわかった」
「もう会えない気がするんですよ」Yは両足を椅子の下に入れて、左足の踵の上に、右足を、重ねるように組んだ。
「なんで?」
「だって、別れたじゃないですか」
「それは関係ない。地球上にいるんだから。会える」
「男と女は違いますよ、あなたはー」
「連絡先、知ってるでしょ。連絡すればいいと思います」
「湿布さんは、会ってないんですか?」
「うん。一度も。連絡はたまーに。あるかな」
「はぁ。さすがだよ。あんたわ」Yは身体を腰掛の方に起こすと、キッチンの様子を少し伺ったわ。
「なによ」
「あなたにはかないません」
「へぇ。ごめん、うれしくない。まったく」
「はぁ」
「そんなにため息つくなよ。臭いから」Yの掌は、Eの方を向き、二度、左右に揺れる。Eはその、掌の揺れを見届けることなく、窓の外へ視線を向けた。
冷え性さんは、私のことを恐れてるのよ」
「へぇ、どうだか」Eは椅子の背もたれに、もたれかかる。
「あなたが恐れてる。の、間違いでは?」Yは左手でコップを掴むと、唇をつけ、一口。飲み込んだわ。
「そんなこと言ったら、みんな。みんなそうでしょ?みんな恐れてるんじゃないの。君だって、例外じゃない。私がそう思いたいだけなのかもしれないけど」
「ご愁傷さま」
「なに?」
「そうですね。あなた様のことを、みんな恐れてますよ」紅茶がお盆に乗って運ばれてきたわ。さっきの恰幅のいいおじさま。この人、笑いすぎて、頬っぺたが笑ったまま固定されちゃった。みたいな顔をしてるの。多分、老眼鏡(と、思われるもの)を首から下げてて、Yの目の前に、紅茶(角砂糖が入った白く、小さな器と、ミルクも)を置いたわ。
「残念ね。全然面白くないよ」
「じゃああれか。あのラーメンー」Yはマグの取っ手を左手の親指と人差し指、それから中指で挟み、右手の人差し指と親指でソオサアを掴んで、Eの方に運んだわ。この際、マグの取っ手をEに向けながら、「なに?」って聞いた。
「あの台風の日に、激辛ラーメンを作ろうってー」
「関係ないでしょ。それ以上言ったら怒ります」
「僕は、あの時に相談に乗りました」砂糖が入った小さな器と、ミルクが入った小さなカップ、みたいなやつを、それぞれ順番に、左手でEの方に運びながら、Yは言いました。
「お前はいなかったんだっけ?」EはYの前で三度、うなずいて見せたわ。
「本当に関係ない」今度は恰幅のいいおじさまじゃなくて、細身のおばさまが来た。
「幸せになってほしいんですよ。本当に」Yはおばさまの方をちらりと見て、「へぇ」って声を出したわ。わりと大きな声で。おばさまは、紙ナプキンをYの手元に置き、その上に、音を立てずに、スプウンを置きにいく。ついでに紙エプロンも、Yの前に置いて、去っていったわ。
「お前だけじゃない。あの、『不健康な他人』にいた、全ての人。全員に。幸せになってほしい」と、E。Yはスプウンを右手で持つと、裏返し、また、元の位置に置く。
「何で幸せになってほしいの?ついでに言うと私の名前は、お前じゃない」
「なぜ?」紙エプロンを広げ、自分の首元にかけるY。首の後ろでゆるく結び、指先で軽く払うと、エプロンの位置を整えた。
「うん」
「あぁ。前にもしましたね。この話」今度はカリィが来たわ。細身のおば様。この人はおじさまに比べて無表情ね。
「へぇ。そうだっけ。覚えてない」Yは両手を使って、カリィを丁寧に受け取ると、ゆっくり、机の上に降ろしていくの。降ろしながら、カリィの香りを嗅いでた。
「そりゃ、不幸になりたい人なんて、めったにいないから。僕も幸せになりたいですよ。ちょっとは。でも僕は、僕なんかよりはるかに、『不健康な他人』の人達の幸せを、願ってます」
「うん」
白ご飯の上に、これはひき肉のキイマカリィかしら。お米がてかてかしてまして。その上に、沈黙が続いても心地よさを覚える男女のように、ルウがだらっと、もたれかかっているの。半分くらいカリィの領域があるんだけど、ちょっとばかし、白ご飯が顔を出してるところがあってね。慌てて呼吸してるみたいな感じなの。はぁ、かわいいわ。その上にインゲンが三つとパプリカ、それから、白いスナック菓子みたいなものがうまく重なって、そびえ立ってる。なにこれ?そして最後に糸唐辛子?が接合部に、うまくモザイクをかけてる。Eはしゃべり出す。
「音楽は、弾いてる人と、聴いてる人がいますよ。僕たちは、音楽をやってました」
「最後らへんはやってないけどね」
「不健康な他人にいなかったのは、何だと思いますか?」
「質問返しがくるとは。食べていい?」と、Y。言いながら、お皿を90度くらい、反時計回りに動かしたわ。Yにはカリィを食べ始める際に、Yから見て右側にライス、左側にルウがくるよう、皿を正面に配置する、こだわりがあったの。
「聴いてる人ですよ」
「いた。いただきます。いました。紅茶、飲みなよ」Yはスプウンを右手の人差し指と中指の第一関節あたりで挟み、それから、親指でしっかりと、固定。
「いや。いなかった。僕は思います。たった一人でも、ちゃんと、聴いてくれる人が居たら」
Yは白ご飯が、ルウの中からちょこっと、顔を出してるところを狙ったわ。スプウンがご飯の下に、すうっと入り込んでいくとね、ルウも一緒に入り込んでいってね。あぁ、もう。ひき肉も。一緒に。ずるずるって。それからスプウンのなかに、ご飯が乗り上げていって、、嗚呼。空中へ。このときEはYの顔を見た。かぷり。口の中に熱と、これは、柑橘系の酸味だわ。そこから、苦味を経由して、スパイスが、ご飯と、口の中で、踊る。そして落ち着いたと思ったら、喉の奥を流れていくのよ。
「へぇ」
「ぼくは聴きたいんですよ。不健康な他人を」
さっきまで、白ご飯が顔を出していたところには、ルウが滑り込んできて、沈黙。今度はそのすぐ右側にスプウンが入ってくるわ。嗚呼。
「きっとね」
再び、空中へ。今度は口の中で、さっきの残り香があったのかしら。スパイスが先に広がったわ。そこから、酸味が効いてきて、苦味とあいまって、優しく、口の中を駆け抜ける。Eは右手で自分の左肘をいじり始めた。
「なんなら、あのメンバーから外れてもいい。ただ聴いている人になりたい。あなただって、あそこで脇役をやってた頃が一番輝いてましたよ。自分でもー」
「いいえ。私は一人でピアノを練習してる時が一番幸せ。嘘じゃない。誰も聴いてくれなくたっていい。森の中を彷徨ったら、一台のピアノがあってね。そこで一人、ただ黙々と弾くのが夢」Yはこう言いながら、スプーンをご飯の下に潜り込ませていった。
「そんなのは、音楽じゃない」
後ろの席の坊やが何やら泣き始めた。それをお母さんは必死にちょっと揺らしたりして止めようとしてる。その間、カリィを乗せたスプウンが、空中で一瞬とまって。Yは自分の吐息を少し吹きかけてから、口の中に入れたわ。坊やの叫び声が止むと、Yは話し出した。
「音楽でしょ。森の中で腹を叩いても、あんたの頭を叩いても一緒。ちょっと、性格は悪いかもしれないけど」
「じゃあ、あんたが死んだらあんたの頭蓋骨は楽器にして、僕が森で演奏する時に使うから安心してください」今回は、カリィが喉を流れるまで、時間がかかったわ。口元を拭うY。
「いいよ。その代わり、お前が私より長く生きれたらの話だけど。私の方が長く生きてたら、あなたの遺骨はアンプの横ね」
Yは、スプウンの先で白飯を叩くようにして、三角州の中に一度落としてから、ひとすくい。
「相互だと思うんですよ」
「ふぅん」この時のYの声は完全に鼻音だった。
「相互の関係の中で生まれますよ」
「せめて楽譜どおりに弾けるようになってから言って」
また坊やが泣き始めた。今度はなかなか泣き止まない。そこで、そのお母さんは、唇を強く結んでから空気を一気に放って、「Va」に近い音を出すやつをやったわ。これを二回連続、三セット繰り返したところで、Eは言った。
「音楽だけじゃないです」
Eは右手で左肘をいじるのをやめ、今度は左手で右手首を触りだした。それから先ほどの坊やが泣き止んだの。なんなのかしらあの技。「ヴァッ」「ヴァッ」って。とりあえずそれで、Eは話し出したわ。
「ぼくは、いろいろ、言いたいことがあった。でも、何も言えてない」
Yはこの間ずっと、カリィを食べてた。基本的に自分が今まさに食べているカリィを見てるんだけど、たまにEのパァカァに赤字で大きく書いてある『TERRITORIES』ってとこや、Eがあまり手をつけていない紅茶の水面をチラチラ見てたわ。
「小学校二年生くらいの女の子が、『犬のおまわりさん』みたいなやつを弾いてたんですよ。あの、アーケードの中にある、おんぼろのピアノで。みたいなやつっていうのは、それはもうめちゃくちゃだったから、よくわからない、ってことなんですが、とにかく、そのときに、近くに一人のおじさんがベンチに座ってて、これは、この人はどんな想いで聴いてるんだろう。と思って、ちょっとよく見てみたら」
Eは自分の頭を上下に三、四回、振って見せる。
「ヘドバンしてたんですよ。ぼくはもうそのときに、ああこれは、と。これだ。と思ったんです。本当に音楽が好きな人は、しちゃうんですよ。しちゃうしちゃうヘドバン」
Yはスプウンをくわえたまま、Eの顔を目視。Eと目が合うと、スプウンを口からすっと出し、咀嚼。Eは自分の両手指の関節を眺めながら言った。
「あなたは、完結してる。一人で」
インゲンをルウの中に白飯と一緒に落とし込んでから、Yはスプウンを沈み込ませ、親指で一寸ひねり、口元まで運ぶ。それから、今回は早めに飲み込んで言ったの。
「いいえ。あなたは一年後も、今自分が出せる音なら、すべて出せると思ってる」
「一年後に出せなくなるなら、それはそいつの問題です」左手で、右手首をほぐし始めるE。
「残念ながら」Yは、一旦スプーンを皿の淵に置き、その手でコップを掴む。水を飲み下してから、「なんで何も言えなくなったと思う?」って言ったわ。Yは自称ポォカァフェイスなんだけど、そもそもポォカァフェイスって、素の顔と見せかけて、実は違いますよフェイスのことでしょ?こいつの場合は、素の顔をそのまんま見せてるのに、ポォカァと見せかけるフェイスなの。こんな可哀想なやつって、そうそういないわね。
「言えなくなったんじゃない」
続いては、パプリカの登場です。ルウをしっかり白飯の中に落とし込み、赤いパプリカと一緒に、Eに見せつけるよう、すくいあげる。口元まで持ってきた。
「いろいろ言いたいことがあったんでしょ」
Yは一度、スプウンを口の中に入れたんだけど、まだちょっとだけ、スプウンに残ってたの。カリィが。だから、もう一度、スプウンを唇の奥に、通したわ。
「実際に言おうとしてましたね」
老若男女問わず、何かを噛んでる時って、唇が小刻みに動くじゃない?この子は、この唇の動きだけを見てれば、とっても美人なのよね。
「誰に?」 
「もうそういうのはどうでもよかった」
Eは左手で右手首をもみほぐしていたのだけど、ついに作業は手の平の方に移って、今度は手の平のつぼを刺激し始めたわ。
「どんなことが言いたかったの?」
Eが宙に、次なる言葉を探している間も、Yはカリィなる大地を開拓していた。
「言葉にすると、全部嘘になっちゃう気がするんですよ」
スプウンを口の中に入れた直後だったから、ほとんど鼻音で「うん」って答えてた。スプウンを素早く、口から出す際に、舌がちらりと見えた。さっと、しまいこんだわ。
「だから全ては行動で示したのかもしれない」
Yはカリィの横に置いてた左手を、少し自分の方に引き寄せながら、「だから言えなくなったの?」って、言ったわ。
「そもそも、時間の無駄なんですよ」ここで、Eは左手の親指以外の指で、右の中指を包み込むように支え、親指で中指の腹を、もみほぐし始める。
「人の愚痴を言いたくなったら、自分の努力が足りないんだと思うようにしてきました」咀嚼するY。
「だってそうでしょ。なんでみんなみんな」お店のステレオからは、Bill Evansの『You Must Believe In Spring』が流れてる。
「どいつもこいつも、俺たちくらいのやつはみんなそうですよ」
ここにはね、白いドアが二つあって、一つは出入り口。一つはトイレに繋がってるの。真ん中に丸いテイブルが一つ。その丸いテイブルの隣に、長机が一つ。二人はその長机がある反対側の窓際の席に座ってて、さっきも言ったけど、入り口から一番近い席に座ってる。カウンタア席は、六つあって、入り口から一番遠い、カウンタア席に、黒のパァカァを着た、女の子が一人。カウンタア席と、長机の間に、上からハンモックみたいなのが、ぶら下がってる。二人が座ってる、ちょうど反対側くらいのところにあるわ。
「忙しい。あぁっ!忙しい。あぁ忙しい、、忙しいよぉ。あんよはじょうず!!あんよはじょうず!!」この『あんよはじょうず』のところでEは、小刻みに手拍子を叩いた。この際、顔からね、もう目が飛び出そうだった。本当に。
「ちょっとだけ、声を落として」
「忙しいんですよ。そうなんです。忙しい人達なんですよ。とても忙しい人達なんです。これは紛れもない事実です。僕が不思議に思うのは、その忙しい人達は、それほどの忙しさにも関わらず、どうやら人の悪い面、あくまでその方々から見て、ということになりますが。そら、それほどの忙しさにも関わらず、人の悪い面を御指摘するお時間はあるんですよ。これは不思議ですよ。ひょっとして、総じて自分の自己紹介がしたいだけなのかもしれません。あくまでこれは、不思議だなぁということなんですが」Eは中指の腹を揉みほぐす作業を、再開。Yの言葉が効いたのか、本当にちょっとだけ、声のボリュウムを落としたわ。
「前に話したとき、良い面も、悪い面も、どっちも見るようにしてるって、そういいましたよね」
「言ったな」
「僕は思うんですよ。どんな物事にしても、そうですけど。良い面は必ずあると思いますよ。テロリストだろうが、とんでもない性癖持ちだろうが、僕は知ろうとさえ思えば、必ず肯定できる。だから努力が足りないんだと思ってやってきたわけです」
右手でスプウンを皿に置き、左手で紙ナプキンをとると、Yはもぐもぐしながら、口元を拭った。
「でもみんな。どこもかしこも、やたら卑屈になってるか、ちょっとずつ、ちょっとずつ、他人のことを馬鹿にしてるやつばっかりですよ。なんで人の良い面について話さないのでしょうか。僕は嫌なんですよ、人の悪口を言って、自分の自己紹介をするのが。本当に気持ち悪い。吐き気がするんですよ」ここで、Eの中指の腹を揉みほぐすような仕草は止まったの。今度はただ、中指の腹を、ぐっと押さえつけてる。そこを刺激するのが、心地よいみたい。
「本当のところ、吐いちゃったんですよ。えぇ」
Yはスプウンで、残りの白飯を崩しにかかった。白飯全滅なり。ルウに含まれることになった白飯たちは、そのまま、次々と、口元に運ばれては、吐息を吹きかけられ、唇にかすみ取られていく。
「この前、教育のセミナーに言って、個性の話をやってました。みんなたっぷり、私は個性を持ち合わせてる、みたいな連中が集まって。それで大真面目に個性についてみんなで話すんですよ。びっくりして言葉もでなかったですね。私はいよいよ自分がしたいことができるようになったとか、これは老いぼれの遺言ですとか、そういう前置きを長々と喋って、みんなそれを、必死にノートに取ったりしてご丁寧に刮目して聞いてるんです。そういうやつらが、普段何をしてるかって、言うまでもないじゃないですか。本当に突っ込みどころが多すぎて、もうほんと。吐いちゃいました」Eが話してる間にね、後ろに座ってた坊やのお母さまが、トイレに向かったの。それで、後ろの席は、老夫婦とお孫さんという形になったんだけど、そしたら坊やがまた、泣き始めちゃって。この坊やの叫びに負けないくらい、声のボリュウムを上げていくE。
「いやぁ、本当に、素晴らしいなぁもう!これでますます変態が増えるわけですよ。自ら課題を発見し、解決する力?考えてみて下さいよ。街中、自ら課題を発見し、解決する力だらけになった社会を。さっとすると課題を発見し、解決しようとする。私は曲がりなりにもそれを実践しようとしてきました。はは。その結果、多くの敵を作りましたよ。四面楚歌。自ら課題を発見する?はっきり言って変態です。でもまぁそんな変態が現代において求められているのかもしれないですね、ですので、これについて、異論はありません。だがしかし問題は次です。自ら課題を発見し、解決する。解決する。この点についてですが、明らかに説明不足だと思います。世の中には解決すべきことと、解決しなくても良いことがあるんですよ。そうですよね?なんでもかんでも、いやこれは課題だから。みたいなことを言って解決しようとする奴。本人は至って真面目ですよ。でもこういう奴は除け者にされるじゃないですか。自ら課題を発見して解決する、生きる力を養おうと、真面目にやってきた人が、生きづらさを覚えてしまう。そういった悲しい矛盾に行き着くんですよ。おかしいと思いませんか。なんで誰も、解決しなくていいことは、解決しなくていいんだ。って、言ってくれなかったんだ。そんでもって、君たちは、一人ひとりを見ればみんな良い人ですが、集団になるとてんでだめだ。とか言う人もおりますよ。そういう人が教育とは何か、長々と話すわけなんですよ。もう滑稽で滑稽で。本当に滑稽ー」
「手を置いて。あなた、目を合わせないね。お腹空かない?」この時Yは目に何かが入ったのか、目をいじりながら瞬きを五回、繰り返してた。
「目を合わせると、疲れるんですよ」
「紅茶でも飲んだら」
「飲んでます」ここで老婦人が、赤ん坊を抱きかかえ、立ち上がる。ちょうどこの時、店内にはDelroy Wilsonの『Dancing Mood』が流れてたんだけど、この老婦人はあろうことか、このミュウジックに合わせて、ステップを小刻みに、踏み始めた。
「人の愚痴を言ってる時間は無駄じゃないですか。時間の無駄ですよ。それで本当に幸せになれますか?って言いたいんですよ」ステップを刻む、靴音は教える。二人の、不適切な間と、声のボリュウムを。
「言ってるよ」
この老婦人はリズム感が抜群なの。一度だって、ステップを踏み間違えることはなかったわ。リズムは足裏からお尻、腰に伝わり、赤ん坊が腕の中で揺れ動いてく。それを見てた老夫は、眼鏡の奥で、目を閉じ、小刻みなヘドバン(初めてライブ会場に訪れたお客様が、羞恥心からか、あまり激しくならないような形で身体をゆすり、でも音楽は心の底で楽しんでいるの!と、思わせたいがために生じた動きみたいなやつ)を始めたわ。
「そうです。あなただから、言ってます」
「私に言うのは時間の無駄じゃないの?」赤ん坊が、揺れ動く興奮か、老婦人から香る、香料による興奮にか、さらに鳴き声のボリュウムを高めていたところで、お母さまは、トイレから出てきた。
「時間の無駄ですね。あなたにとっても。そこは本当に申し訳なく思います。だから感謝してる」
「えぇ、大いに感謝してください」と、頭を傾け、眉を寄せるY。お母さまが、席に戻ってくると、坊やは泣きやんだわ。老婦人は着席。老夫は目を開く。
「あなたはどう転んでも、自分を幸せにしますよ」Eはこう言うと、自分の両ポケットに手を突っ込む。沈黙。
「こんなことが言いたかったんじゃないんですよ」老夫婦とそのお孫さん、お母さまは、立ち上がり、レジの方へ向かったわ。
「もっと、別なことだった」
続いては福神漬けの登場です。いよいよラストスパァトに差し掛かってる。Yはこのラストスパァトで、福神漬けというカァドを切ったの。気持ちはわからなくもないわ。カリィのタイプにもよるけど。でも私はらっきょう派なのよね。カリィ教、らっきょう派。断然。
「ヘリウムガスで飛んでる風船が、百個くらいあったんですよ。僕の周りに」坊やとお母さまとおじさま。それからおば様が、お店を出る。からん、からん、と、扉の開く音は鳴り、扉の閉まる音は、店内に残る。
「そいつらを、手の届く範囲に置いときたくて、紐でくくったり、テープでとめたりしてたんです」それから、入れ違いに男が入ってきた。スウツ姿。ネクタイをいじりながら。そのまま、奥の黒いパァカァを着た女の子の、隣の席に座ったわ。
「でもたまに、紐がほつれたり、テープが切れたりして、飛んで行こうとしたりするんで、ずっと見張って、注意してたわけです。それで今までやってきたんですけど、この前数えたら、九十九になってる」Yの持つスプウンは、お皿の縁へ、残りのカリィアンドライスを寄せていく。Yはこの時、スプウンの動きから、目を離さなかった。
「一個減ってるんですよ。どうしてか」
Eは腕を組んで、片方の手を、もう片方の腕の裾に入れ、清時代の人、みたいなことをしてた。
「僕は思ったんですよ。このまま減っていくんだって。必ず。そういうことが言いたかった」
Yは最後の一口を、すくいあげる。口元に運ぶ。唇で受け止めると、下唇にはみ出たルウを左人差し指の、第二関節で拭ったわ。
「いつかもわからないんですよ」
「なんか言ってほしいなら言うけど。今はそっとしておいてほしいなら、言わないでおこうか?」Eは服の下から肘をいじり始めた。右手で左腕の肘。左手で右腕の肘を。
「意見を聞きたいです」
Yは、「ちょっと待って」って言うと、ゆっくりと噛みながら、右手で紙ナプキンを掴んで。口元を拭いた。もぐもぐ。それから左手で水が入ったコップを掴み、一気に飲み干すと、銀の水差しを掴んで、「私の場合は、ちょっと違うかな」と、話した。コップの中に、水を注いでいく。左手を首元の後ろに当てて、紙エプロンの結び目を、引きちぎる。身につけてた、紙エプロンを外しながら、
「日常の中で、いろいろあっても、なんとかなるんだけど。その日常の中で、風船みたいなやつが飛んで行く瞬間があるの。ふんふんふんー。って楽しく歩いてたら、あっ、飛んでっちゃった。って。たったそれだけなんだけど。うんざりするかな。それで何を批判するかって、それが日常に対してになっちゃってる気がする」この子は整理整頓とかは苦手なんだけど、洗濯物は綺麗にたたむ人だったわ。この時の、紙エプロンに対してもね。
「でも、そういうことじゃないんだよね」Yはこう言うと、両手を膝の上に置いて(Yはだいたい心にもないお世辞とか、作り話とかをする際には、必ずと言っていいほど『さぁ、はじめましょ?』みたいな感じで、視線を落とし、この両手を膝の上に置くやつをやるの)、Eのそばにあるティイカップに目線を合わせる。しばし沈黙。Eは窓の外に顔を向け、横目でYをちらりと見た。
「高校の時ね。女子校だったんだけど。バンドを組んでた子がいて」自分が吐き出す息を、できるだけ最小限に抑えるよう、声を発するY。
「そいつ、凄く面白い子で、成績はそこそこだったけど。髪がこんくらいで。自転車の漕ぎ方が、すごい前のめりなやつだった」Yは右の手の平を地面の方に向けて、自分の乳房の上辺りでとめたわ。
「とっても歌がうまかったな。音感もあったし。帰国子女なんだけど」この『帰国子女なんだけど』のところで、Yは一度、Eに一瞥をくれる。
「でも、PTSDってやつだったの。心的外傷後ストレス障害って言うんだけど。本人はそのころ、治ってる、治ってる。って言い張ってたんだけどさ。それもあってなのか、すごい歌は、うまいはうまいんだけど、日によって明らかに歌い方が違ったな。この世の終わりみたいな歌い方をしたと思ったら、幼稚園児がお遊戯会で歌ってるみたいな歌い方をする時もあった」ここで袖の中に入れた両手をゆっくりと抜き出すE。
「どんなことがあったとか、どうも、詳しいことは教えてくれないし、私もちょっとしか知らないし、ここでどうこう言うことではないんだけど。その子は男性が本当にダメだった。同じ空間にいるくらいなら大丈夫だった?のかな、今考えればそれもよくわからない。閃輝暗点って、わかる?」EはYの目線を追う。どうやら自分のソオサァ辺りに目線が向いていることを発見する。
「わからないですね」
「目のちょっとした病気なんだけど。ちなみに私もその病気を持ってて。特に、めちゃくちゃ厄介ってわけではないんだけど。目の中になんか、丸くて、ギザギザした輪っかみたいな。小さく光るやつがたまに出てくるの。で、だんだん大きくなっていって、視界が狭まっていってね。それが始まると、わたしもじっと目を閉じて、寝たふりをするくらいしかできないんだけど、私も最初にそれが出たときは、中学生くらいで。これ、こっからどうなんの?って感じだったんだけど、ある程度大きくなると、輪っかだからか、視界の外にいっちゃうの。視界の外側にどんどん広がってく感じ。うん。わからないだろうけど。本当にそんな感じなの。イメージして。このあと、私の場合は、頭痛が来たり来なかったり」Yは自分の左肩、首の左側をさすったりして、暫く、間を作ってた。それからYはEの目を見て少し笑ったわ。
「この閃輝暗点ってやつを、そのバンドを組んでた子も持っててね。どうやらPTSDと関係してるのか、よくわからないんだけど。とにかくそれが出ると、発作が来た。とか言って、目を叩くのよ。もうほんと、すごい勢いで。もう目が潰れるんじゃないかってくらい。えんぴつなんか持ってたら大変だよね。すごい痣になっちゃったときもあってね。せっかくのかわいい顔が台無し。まぁでもそういうときは、一応対処法を編み出してて、三人か四人がかりくらいで、右腕を一人。左腕を一人。後ろから抑えつける人を一人みたいな感じで。めちゃくちゃ体力を使うんだけど。だいたい三、四十分くらいずっと抑えつけて。歌を唄うの。そしたら一緒に唄ってくれるの。普通に意識はあるからね。どんな歌でも唄ったな」ここで、初めてティイカップの取っ手に、Eの手指が触れる。
「今でも覚えてる。あの歌声は、何にも代えがたいものだった」Tカップがソオサァの上を飛ぶ。生ぬるい液体が、Eの口の中へ、こぼれ落ちる。
「あれは、高校二年の冬だった。放課後に教室で二人で残っててね。夕日が廊下から見えるくらいだった。その日は朝から調子が良さそうだったんだけど。教室の黒板で絵しりとりをしててね。あいつ、絵もうまいのよ。悔しいけど。じゃんけんで負けた方が黒板を消すってことで、じゃんけんしてね。私が負けたから、黒板を消してたの。不思議なんだけど、なかなかうまく消えなかったんだよね。なんかそういうときってあるでしょ。黒板消しの裏を見た瞬間くらいだった。その子が教室を飛び出す音が聞こえて。自分でもよくわかんないんだけど、追っちゃったんだよね」Eはしばらく、その手に持ったティイカップを離さなかったわ。Yの目線の中に、そのティイカップが入っていく。
「足の速さでは私の方が勝ってると思ってたから、すぐ追いつけると思ったんだけど。どこ行くの?って大声で言った。返事がないから、私はもう本当に夢中で走った。外階段の方に出たから、反射的に唄ったの。メリーさんの羊。なんでメリーさんの羊だったのかな。もう、私もそれくらいしか浮かばなかったからかもしれないけど。階段を登りながらね。あと少しだったの。一メートル?もう本当にそのくらいだった。それはもう本当に。本当に。世界が沈黙するくらい綺麗な唄声が聞こえたの。それで私、足が止まっちゃって。目の前を唄いながら落ちていったわ」Eは吐息が音を立てないように口で呼吸をすると、紅茶風味のする唾液を、飲み下す。目の前に、大きな渦の流れを作り出す。そこへ向かった、あらゆるものはなだれ込み、溶け出す。そうてまた、より大きな渦を作り出す。忘却。何もなかった、みたいになるの。
「頭から落ちたってより、目?目から落ちた感じね」ここで、二人の目が合う。
「その時にしか出てこない音があると思う。言葉だって、そうでしょ?」この言葉は、Eに対する質問だったのか、あるいは自分に対する質問だったのか、私にはわからない。何れにせよEはここで、しばし沈黙を続けた。自分が、(少なくともYに対しては)安易なやつだと、思われたくないの、こいつは。
「いや、僕の口からはどう言えばいいか」
Yは目線を外の方に向け、「風船みたいなのを、ずっと見張ってるんだったよね?それで、この前数えてみたら、一つ減ってた」って、口にした。
「そうです」二人が座ってるところの窓からはちょっとしたお庭が見えるの。さっきも言った、屋根付きのバルコニイの中にね。庭って言っても、そんな大きくはない。ちなみにそのバルコニイの先に、道路が見渡せるようになってる。まぁ見えちゃってると言った方が適当ね。そこに数多ある花の一つ一つを見やりながら、Yは空気を振動させ、音声を送った。
「なんで数えてみたの?」Eは角砂糖を一つ、つまみ、ティイカップの中へ。ティイスプウンで、かき混ぜ始めた。
「なんででしょうね」
「知りたくなったんじゃなくて?」角砂糖がある程度、形を失いかけたところで、Eはティイカップの取っ手を、再び掴む。今度はごくごく、飲み込んだわ。
「いや。なんとなく数えたんですよ。理由なんて特になかったです」
「言葉にすると、全部嘘になっちゃう気がするって、言ったよね」Eはカップをソオサァ上に置くと、Yの目を見やり、小さくうなづく。
「私もそれは、そう思うかな。たまーに。本当のことは、ずっと。本当のままにしておきたいなって」
「一つだけ言いたいことがあります」Yは窓ガラスからEの方へ、首をひねる。飲み干したティイカップを見ながら、「もしあなたが女でも、もう少しブスがよかった」と、E。
「それは、褒めてるの?」
「褒めてるんですよ」ここで、笑顔が張り付いちゃったおじさまが登場。カリィとティイカップ、ソオサァをお盆にのせていく。
「面白くないよ」おじさまはスプウンやら、角砂糖の入った器やら何やら、机にあるものを一通りお盆にのせると、二人の元を、去っていった。おじさまが去ったことを確認すると、Eはこう言ったわ。
「あなたの性格の悪さを、みんな知らないなんて、そんなの絶対おかしいですよ。狂ってる」
「そっくりそのまま。お前に返すよ。私は甘い人なだけ」Yはこう言うと、右手でアルペジオを弾いてる、みたいな仕草を見せた。
「だいぶ話せるようになりました」
「そうだね。もうあんまり声を聞きたくないかも」大きな欠伸をするY。わざとらしく。Eは真剣な表情をYに向ける。
「風呂に入ろうかと思います」
「入ってください」左ポケットに入った携帯で、現在時刻を確認するE。
「次会うときは、敵同士かもしれません。そのときは一戦交える前に、共に唄いましょう」Yはマフラアを首にぶら下げ、巻きつける。
「うん。お前が歌い出したところを、一発で仕留めるからね」Yはこう言うと、首の後ろに、両の手を回す。頭を下げる。マフラアの対を柔らかく、結んだ。